2014年03月31日

さくらさいた

      


 ずっしりと分厚い雲が空を流れていく。遠くに青空が見えているものの、また
一雨振りそうな、どす黒い雲が、白い雲を覆ってしまい始めた。
 天空怒れし。人間の力の及ぶことではない、と言う風に。
南海トラフ地震で死者は30万人以上推定されている。それを80パーセント防ぐための防災計画がねられているらしい。
 阪神淡路の大震災が起こった時に、500年に一度の地震で、今後はあのような地震は起こらないなどと言われていたが、楽観視にすぎなかった。
 日本列島は、卵の殻にヒビが入るように、全体的に亀裂してくのだろうか。
かつて、バッカスに酔いしれた、おごれるローマ帝国が、大地震で破壊され、海の底に埋もれたように、日本も、その道を辿るのだろうか。
そんなことはない、と打ち消すように、今朝は、太陽が光り輝き、雨に打たれた蕾が一斉に花開いた。
 初夏のような陽気、太陽はまぶしく照りつける。
冬眠から目覚めるように、風邪から抜け出した。
 いつまでも寝ているわけにはいかない。月末なのに、映画の券が一杯残っている。
 車で、西宮ガーデンズに。
玉三郎の「日本橋」は、グランド映画として2000円の別料金。予想して通り。
チケット売場に並んでいる男の人も、優待券が余っているので、やってきたという。
 無料券を使っておかないとと思って、「ワンチャンス」という映画を選んだ。
オペラ歌手への道を描いた映画なので、オペラが聴けるだろうと思って。

https://www.youtube.com/watch?feature=player_detailpage&v=iJrsmAdVFKA ディズニーの約束

 その後、すでに始まっているけれど、「ディズニーの約束」という映画を見ることに。
「ワンチャンス」も、「ディズニーの約束」も実話をもとにしている。

https://www.youtube.com/watch?v=qdIhfo2jUTY&feature=player_detailpage ワンチャンス
「ディズニーの約束」は、メリーポピンズの作者に20年間、アプローチを続け、やっとかなった、作品の映画化の作者との複雑な過程を描いたもの。
「ワンチャンス」は、気立ての優しいオペラ好き少年が、苦難を乗り越えて、チャンスをつかんでいく話で、どちらも、ハッピーエンド。
 昼食抜きで、お腹は空いているけれど、母の所にもいかないと、1週間ぶりなので、
気になって。
 階下のイズミヤで、果物とサンドイットなどを買った。




増税前の最終日とあって、沢山の人が買い物に来ている。カートに一杯詰め込んでいる。
酒類がうず高く積まれている。イズミヤは安いなあ、と感心する。
 3つで千円という蜜柑を買った。何でも複数量だと安い。それに、すごい種類と莫大な量の食料品が、広大なスペースに並んでいる。
アメリカのスーパーみたい。
 お腹を空かせて、グランダに行くと、丁度今おやつの時間が終わったばかりで、
エレベーターの前にいた母が、嬉しそうに歓迎してくれた。
「よかったわね。来たの。」抱きついてきた。
しばらくぶりなのがなんとなくわかるようだ。
週に3度は最低行くようにしているので、1週間はご無沙汰になる。
 夕方、医者に行かないといけないので、適当な時間に出た。
今日は行ったのが早くて、太陽がまだ高かったので、母の心も落ち着いて
いた。陽気なのが、母にも伝わっているのだろう。
 私は映画で疲れて、まだ本調子ではないのが、わかる。
医者に行って、診察してもらい、薬の処方箋をもらった。
 アレルギー症状と、、気管支炎、これからずっとこの調子なのかな。
元気ださなくちゃ。
 
  

Posted by アッチャン at 19:59Comments(0)映画

2014年02月27日

映画「フィラデルフィア」

      


 
 この所、アカデミー賞の特集映画をテレビで見られるので、
毎夜、映画を見て過ごしている。
 昨夜は、「フォレスト、ガンブ」を見ていた。頭痛がひどくて、
我慢しながらも、途中一瞬、眠っていた。
 先日は、何回も観ているから、いいか、と思いながらも、新たなる
感動を受けたのは、「フィラデルフィア」だった。
 私は、フォレスト、よりもずっと「フォラデルフィア」の方が心に残る。
フィラデルフィアに行ってみたいという思いは、この映画をみたからだ。
まだフィラデルフィアに行く機会がないけれど。
ニューヨークから、電車でも2時間くらい、飛行機なら40分もあれば行けるのに。
 この映画は、エイズにかかった弁護士アンドリューは、所属する弁護士事務所から
不当に解雇された事で、勤めていた弁護士事務所を訴える。エイズへの偏見から、
引き受けてくれる弁護士がいない。デンゼルワシントン扮する黒人弁護士と共に、
名うての有名弁護士と戦うという、アメリカ映画が好きな裁判劇だ。
 私がこの映画に深く感動するのは、人間の弱さと優しさが、ホモ愛のバックボーンに
なっていることだ。
 弱さは優しさに通じるものだ。愛を求める心は、心の不安や寂しさが、人間が孤独だから求めてやまないもの。
  アンドリューは、フィラデルフィア、というニューヨークから距離を置いた、家族愛に恵まれて、友人達に囲まれて育った、優しくて繊細な子供だった。




 彼の愛情は、同性の友情的な親しみやすさと安心感のあるホモに向けられる。それが正当化されていない社会の中で、彼は隠すつもりはなかったけれど、キリスト教主義的な偏見社会では、影の存在で、どこか後ろめたさを強いられていた。
 弁護士への憧れは、「自分が正義を決断し正義の道を歩んでいると実感できること」だ。
尊敬する事務所のベテラン弁護士は、法の正義の目標的存在だったはず。
 この世の中から1000人弁護士が消えたら、「世の中はずっと良くなるだろう。」という台詞は、弁護士が、いかに不正と偏見と強欲に満ちているかということをあらわしている。
同性愛に対して、偏見を持つ人は、愛を知らない人達だ。
 アンドリューの家族は、彼の仲間達は、彼を愛し、彼を励まし、彼の支えとなっている。
 アンドリューへのパートナーの誠実で変わらない愛は献身的で、互いの信頼の元に二人三脚で傍に寄り添っている。
 彼らが同棲しいていた頃、アンドリューは、ホモがたむろする映画館に入って、パートナーへの裏切りともいえる行為をしたことが、裁判の席上で持ち上がっても、彼の愛は変わらない。
神が与える試練は人間に幾つもの苦難。耐えがいほどの苦しみや罰を与えるけれど、
不安の恐怖の中、孤独の扉をこじ開けて、叫ぶ。愛するのは、この私。愛は私、神は私そのもの、私は神になる。




カラスの素晴らしいオペラに、この映画の主題は言いつくされる。
 フィラデルフィアの主題歌が、小雨ふるフィラデルフィアの孤独のように流れる。
けだるいような静かな声で、抑揚の繰り返し、薄い、霧のようなメロディーで。
「不安な僕が愛されていると感じる時、僕の心は安心して安らぐ、。」
見終わってから、始まる映画。感動がいまでも持続していく。
 愛の形は、様々。孤独な心を受けとめて、優しく包んでくれるのは、愛、神の愛のように、全てを受け入れる穢れない愛の形。愛するのは私、私こそ神、ジャスティス、
偏見のない正義。
  

Posted by アッチャン at 16:51Comments(0)映画

2013年09月05日

野田版「研辰の討たれ」

 

      

 
 歌舞伎映画「野田版研辰の討たれ」を観に行きました。


神戸松竹で上映中です。
勘三郎の額から、着物で、汗が噴き出しているのが、映画の画面ならではの見え。
舞台の隅から隅まで、観客席にも現れての、エンターテメント120パーセントの公演。
出花から、観客は大笑いの連続で、勘三郎がもういないのだと言うことも忘れて、引き込まれていましたが、このお芝居は、悲しい物語の結末を迎えて終わります。
 敵を追われる身になった、元研ぎ職の研辰が、敵討ちの兄弟に、最期はだまし討ちにあって、死ぬ場面で終わっている。
「桜のように潔いわけではありません。秋の紅葉だって、赤く染まって落ちていく。ひとひらひとひら、悲しく」という台詞で、死にたくない一心になんとか命乞いをしようとする研辰が、命の儚さを訴えながら,市を覚悟するシーン。周りの人達は、助けてやれよ、というものもあれば、敵討ちを果たせとけいしかかるものもいる。
 「犬になれと言われれば、犬にもなります。」と犬の真似をしていた研辰を、一旦は許してやろうと諦める兄弟ですが、人がいなくなって、やれやれと喜ぶ研辰をばっさrと切り落とす。横たわった体に、秋の紅葉が一片落ちてくる。
幕が再び上がって、カーテンコール。
勘三郎は、舞台の隅から隅に、腰の低い中腰で、観客を仰ぎ見るような姿勢で、感謝のお辞儀を繰り返す。
目は笑っていない。真剣な輝きを放ってる。なんとか、観客に満足していただけたのだろうか。拍手に答えて感謝の気持ちが、痛いほど伝わって来る。
 悲しみがどっと押し寄せる。
ああ、勘三郎のあの素晴らしい演技はもう見られない。
あれほど、エネルギーに溢れた役者が、あれほどの熱演を見せてくれる役者が。
もっともっと、舞台の上で、飛んで跳ねて、最高の間の取り方で、観客の呼吸をも飲み込んでしまその舞台に立っていて欲しかった。
勘三郎の目にうっしらと浮かんでいる涙は、この舞台では、感極まってのことだけど、
悲しみの未来を予測してもいるようで、とても素晴らしいけれど、こよなく最後は悲しかった。

この舞台で、古今奮闘していた福助が、中村歌右衛門の名跡を継ぐことになった。
歌右衛門は、孤高の女型として、その名を継げるものはいないだろうと思われていたけれど、団十郎、勘三郎、という歌舞伎をけん引する大御所が欠けた今、若手がその名にふさわしく育つまで、柱となれる役者の登場が不可欠。
福助が歌右衛門を襲名すれば、若手の育成も柱にもなり、
 歌舞伎に大輪の花が咲かせてくれれば、と願う。


  

Posted by アッチャン at 11:23Comments(0)映画

2013年08月21日

映画「少年H」

      

      
http://www.shonen-h.com/ 少年H
  映画「少年H」を神戸のミントで観ました。
 神戸の友人と12時に待ち合わせ、1時半の部をみるつもりだったのですが、
火曜日はレディース1000円だからか、チケット売り場は満員で、1時半の部は
売り切れ寸前、当然私の番が回っていた時には、売り切れ。
 先日、西宮ガーデンズからの帰りにばったり出会った人は、コナミに来ている人で、
単身赴任のご主人と仲睦まじく、梅田で映画を観て来た帰りで、「世界戦争」という映画がとても良かったとのこと。
 ミントでもそれを上映中で、友人は、それも面白しろそうで、観たいとのこと。
二人が言うなら、きっと面白いのだろうと、1時半から始まるブラッドピット主演のそれを見ることにしました。
少年Hも、4時過ぎの部なら十分席があるので、ついでに観て帰ることに。
 世界戦争は、ゾンビが一杯出て来て、全くのエンタテイメント映画ですが、手に汗握る恐怖感を満喫させてくれる映画でもあって、ドキドキはらはら。あほみたいな映画です。
 クーラーが効きすぎて、身体が冷えてしまった。劇場は満席で、いつもかりるブランケットは一枚もなかった。
 チケットの半券で10パーセント引きのレストランで、ランチすることにして、スペインのパエリアの店に。
 すっと以前に、この店に入ったことがあって、美味しくないと思っていたのですが、結構入ってるので、料理人が変わったのでは?と期待したら、同じ。パエリアなら美味しいのかもしれない。
 「少年H」は、戦時中の神戸が舞台の映画なので、神戸の映画館は、動員数が多い。
 この映画は、なかなかの出来で、暗い時代にありながら、神戸らしく、西洋の香り漂う、
スマートで洋風な雰囲気を漂わせ、ユーモラスに描かれていて、陰鬱な影は全くない。
 戦火を潜り抜けて生きて来た子供たちの、揺るぎない精神力の強さ、真実を見分ける鋭さには、共通するものがある。
 三輪明宏も最近は、戦争の悲惨さを語らないといけないと思い、あちらこちらで機会あるごとに語っているが、この映画の中でも、
 昨日までの価値観が、全部嘘だったという教育の転換、人間の行き様の転換、思想のなさ、を見せつけられた少年が、理不尽さの憤りを、父親にぶつけ、それをイエスの如くに受けいれる父を持っていたからこそ、
自分の目で見て、感じたことを学び、自立していく姿を描いている。
人間、何もない所から、自分の力で生きて行くためには、手に職を持っていることの強みを、この映画で感じた。
洋服の仕立て屋である、父親を持った、息子は、絵を画く事が好きで、看板画きの弟子入りとして、自活していく。
 優しくかばってくれた、中学の教官は、焼け野が原で、時計の修理で生計を立てている。
少年の描く、マネの絵画もわからない教官は戦争という傘の元で、威張り、弱いものを痛めつけていたが、稼業の質屋に戻ると、人間が変わったようにぺこぺこしている。
そういう姿からも、少年は、学んでいく。
 少年期に、戦争体験をした少年達の中から、多くのリベラリストが生まれている。
不屈の精神の強さを持った人達が世に出ている。
  妹尾カッパもそのうちに一人。


  

Posted by アッチャン at 12:16Comments(0)映画

2013年08月19日

映画「嘆きのピエタ」シネリーブス

  

      

  神戸シネリーブスに、アンコールの最終日に行きました。朝一なので、お昼を挟んで、
もう一本、「嘆きのピエタ」を観ました。
アンコールは、、性格の違う夫婦の揺るぎない愛情と、愛の表現が旨く出来ない父親
が、年金生活者達の暖かい愛情と、ボランティアで指導してる、若い音楽教師との暖かい交流で、歌うことで、ストレートに心の愛を表現でき、息子への愛を歌い上げる。
イギリス的な、夫婦の愛、コミュニティーの愛、信頼で結ばれる愛を、ユーモアたっぷりに描いてるいる。

http://encore.asmik-ace.co.jp/アンコール

ハッピーな気分で、昼食は、これまた、ハッピーな490円の海鮮ランチをいただいて、
お腹も満腹。
「嘆きのピエタ」は突端なら、胸の悪くなる暴力シーンで、思わず目をつむってしまうほどの残酷さ。
 これでは、「アウトレイジ」の北野武はとても太刀打ちできない。

http://www.u-picc.com/pieta/ 嘆きのピエタ

 館内は、満席だ。
冒頭は、青年の自慰シーンから始まり、浴室で、血だらけの汚物のようなもの。それを蹴散らして、ナイフをボードに叩きつける。
 旋盤の機械を前にして、取り立てに怯える夫婦。
高利貸しの下で働く青年は、借金のかたを保険で払わせる。身障者にさせるほどの大怪我をさせる。そのシーンもぞっとするが、突然現れた母親と名乗る女性は、「ピエタ」を象徴している。
この世のあらゆる悪や悲しみ、怒り、不幸を、肩代わりする母なる
マリアを表現していて、憎しみが愛を生み出し、頑なで動物的な存在から、愛なくしては生きられない存在へと変えていく。
凄い、この映画には、全てが凝縮されて詰まっている。
金獅子賞に、ふさわしい作品だと思った。けれど、好きな映画ではない。
 日本人の感覚では、北野武までが、暴力的限界では?。
良い映画であることは、間違いないけれど、身が震え、吐き気がする。それはこの映画監督の見事な表現力でもあるのだけど。

 

  

Posted by アッチャン at 12:15Comments(0)映画

2013年08月19日

映画「最後のマイウェイ」


     

 映画「最後のマイウェイ」
http://www.saigono-myway.jp/index.html

今全国上映中の映画。
クロード、フランソワの生涯を、彼のヒット曲の数々と共に描いた映画です。
途中までは、ちょっと退屈ぎみだったkれど、というのも、3時間の長い映画だったの
ですが、その長さは全く気にならないほど、彼の歌を聴くのが魅力的な映画です。


中でも、マイウェイの詩は、39歳という若さで、波乱万丈の、並外れた人生をかけ抜けたクロという愛称で、多くのフアンから愛された人間の生き方と同じで、クライマックスに至るほど、感動がこみ上げて来て、終わった後、誰も席を立つ人はなく、随分長いエンディングの文字列を、ぼんやりと眺めながら、彼の歌を聴いていました。
世に名をろどろかせた、アーティストというべきか、芸人というべきか、そういう人に共通しているのは、金に糸目はつけない浪費家の破天荒な生き方です。




それを見事な生き方だと言えるのは、名を成し、人を魅了し、独自の才能を開花させ、人の為に生きたからでしょう。
クロード、フランソワも、そういう人だから、心に残る「マイウェイ」という曲を残しているのでしょう。
勿論他にも、沢山のヒット曲をだしました。
なんと、6千7百万枚のヒット曲の売り上げを果たしています。
恋に生き、情熱に生きた人であるのも、そういう人に共通するものでしょう。
友人のブログから、マイウェイの歌が紹介されていましたので、私も、入れさせていただきました。
マイウェイは、フランクシナトラが最も、長く歌っていて、彼の為に、書かれた曲なのかと思っていたくらいですが、クロードは、シナトラが歌っているのを知って、誇りに思い、感激したようです。
  

Posted by アッチャン at 01:14Comments(0)映画

2013年08月01日

映画「風たちぬ」

   

http://kazetachinu.jp/

   夏休みとあって、西宮ガーデンズは、親子ずれで込み合ってる。
その中にある、シネマも同様で、7月の最終日に「アンコール」を見に行くと、
すでに席はなかった。
その前日に、友人と待ち合わせ、涼しい所が良いだろうと、西宮ガーデンズに行った。
まだ11時だからか、映画館のどの映画も空席が一杯で、人も少なかった。
友人が「アンコール」を見て、とても良かったと言っていた。
私も、この映画が見たかったので、翌日、もう一枚残っているチケットを使って来るつもりで、
その日は、「31年目の夫婦喧嘩」を二人で観ることに。
東宝の株主に割り当てられる、無料のチケットが、月に1枚の割で、息子名義と2枚使える。
見たい映画の時に、と思って、大事にしていると、2か月にわたっての使用期限がいつのまにか
来ていて、あわてて4枚を使わねばならない時がある。
友人とランチして、おしゃべりのつもりだったけど、チケットが余ってるので、付き合ってもらった。
彼女は、神戸の人なので、三宮にはバスで毎日のようにでかけていて、空いた時間に好きな映画を見ているよう。
このところ、すごく忙しくて、映画を見る時間がなかったので、7月までに使い切る映画館のチケットを沢山残した
ままで、もったいないことをしている。
本を読んでいるのよ、と友人が言った「風たちぬ」のアニメ映画の席がわずかに残っていたので、それを見た。
アニメ映画は、それほど興味ないのだけれど、宮崎アニメは、結構見ている。
その始まりは「千と千尋の神隠し」この映画はとても感激したと同時に、宮崎人気は最もだと感心した。
以来、見るようになった。
「風たちぬ」はアニメによって、ファンタスティックなものにしていて、良い作品に仕上がっている。
飛行機作りを夢見た少年が、彼の想像力と知識とひた向きな努力によって、最軽量で最高速度を出せる飛行機の開発に
成功するけれど、それは,戦争の道具として使われ、ゼロ戦だった。生きて帰って来ることの許されない、悲惨な道具。
関東大震災にしても、これが事実を再現する映画だったら、眼をつむりたくなる光景だ。
若い男女の純真な恋も、これほどの愛らしさをもった、夢のあるロマンには描けないだろう。
アニメだから、この映画は、人々の心に、夢と暖かさを残している。
風たちぬ、いざ生きめやも」という詩は、フランス人の詩人ヴァレリーの「海辺の墓地」の最後の一節から取ったもの。
風ぞ立つ さればわれ生きるべく努めざらめや

  

Posted by アッチャン at 11:31Comments(0)映画

2013年05月28日

映画《舟を編む」

      

 
 映画「舟を編む」を観に行きました。

http://fune-amu.com/ 舟を編む。

見たいと思いつつ、まだ映画館でやっているだろうと
ぐずぐずしていたら、見て来た友人が、「良かった。」と
いうのを聞くと、急に行きたくなって。
生涯をかけて辞書作りに携わる人達を描いた映画で、
所々に、ユーモラスな場面がちりばめられて、
地味で固いテーマに、エンターテイメント性を入れて
バランスの良い映画に仕上がっています。
言葉は、日々、変化し、増殖していきます。
今充、という言葉が、若い人達の間で使われていますが、
今充実して生きている人達の事を言うのですが、先日
母を囲んで集まった時に、弟が、妹夫婦は今充やな、と言って
その言葉が話題になったのですが、新語や造語が、どんどん作られている。
この映画の中で、新しい辞書「大渡海」を18年かけて、完成させるのですが、
現代人の為に、今までにない画期的な辞書なので、「用例採集」に、若い人達の会話を
聞きながら、初めて耳にする言葉を書き留めて、カードを作ります。
私達の回りに、どんどん言葉の海が広がっているのですね。
気の遠くなるような、根気のいる作業を見ていると、見ているだけの私の身体がこちこちになって、眼はかすんで、頭が朦朧としてくる感じ。
とてもとても、あんなこと、私には出来ない。
これからは、もっと辞書を活用しなきゃ、申し訳ない、と思った。
電子書籍が簡単に読めると、重宝される世の中になっても、本でなくちゃ、と
いう人に支えられて、本屋に本が並んでいるのですが、本をめくる感触がなんとも
いえないのでしょう。
辞書に使う紙を持ってきた業者に、「辞書のぬめり感がない。」とクレームをつける所があるのです。ページをめくる手と紙との感触が、たまらないのでしょうね。
学生の頃、辞書を引くのが嫌いで、面倒くさいほうでしたから、辞書を使いこなして、
年代物のようになった辞書を持っている人を尊敬の目で見ていたことを思い出したり。
私の辞書は、買っとく、おいとくで、どれも真新の辞書。
フランス語の中辞典だけは、結構使った形跡ありですが、他の辞書はまったく、可愛そうなものです。
電子辞書を買いたいと、なんども思っていたけれど、本があるのに、買えずに、ぐずぐず。
この映画を見て、辞書を見直さないとね、と思うのですが、眼の方が辛くなってしまって。
バス停で、息子の小学生時代に同学年だった、近所の息子さんを時々みかけるのですが、
先日、バス停でバスを待ちながら、その人は、首からさげた虫眼鏡で、携帯の字を読んでいました。目が相当悪そうです。没頭して、周りのことは全く眼中にないかのように、世界に入り込んでいるようでした。



  

Posted by アッチャン at 00:48Comments(0)映画

2013年05月12日

北野武「キッズ、リターン」

  

 昨夜、北野武監督の「キッズ、リターン」のオリジナル版を見ました。
多分、毎週土曜日の、11時からだと思う。北野武監督作品を、日本映画放送で、
放映しているようで、来週は、ベネチア映画祭で、金獅子賞、グランプリに輝いた
「HANABI」だとか。

http://www.youtube.com/watch?v=MvY6JCFCrQk&feature=player_detailpage#t=52s

以前にも、ブログで書いている「キッズ、リターン」この映画は、私が北野武の作品の中でも、名作中の名作だと思って、惚れ込んだ映画です。
改めて、見て、やはり胸が痛くなり、その余韻は、いつまでも消えず、この映画ほど、青春時代の男の子達を、自然に描き切った映画はないのでは?と思うくらい。
真面目で、教師や、親に取って、扱いやすい、高校生の男の子達よりも、落ちこぼれと教師から、見放され、教室に馴染めず、校庭で、自転車を輪をかくように、乗って時間をつぶしている、二人の高校生達の方が、人間としての生き方を真面目に模索し、大人のつまらない生き方や欺瞞には、耐えられず、腹立たしさや、自分らしく生きたいという欲望と、鬱積したエネルギーを持て余して、はけ口を探しあぐねている。
北野武が、オートバイ事故で、九死に一生を取りとめた、後の、リハビリをかねて作った作品だとか。
その頃、ビートたけしは、泣く子も黙る飛ぶ勢いで、ハチャメチャな酷い番組だし、偉そうな人だ、と思って、私は興味なかった。フライデー殴り込みなど、暴力的で天狗になっていたのだが、この事故を契機に、北野武は再起不能、もうお仕舞だ、と書かれたり。




北野武が、良く口にする「何, 馬鹿やってんの?」という自笑的な、自己を見つめる、もう一人の自分(北野武監督)の視点によって、作られた、当時の心境を、そのまま描き出しているような作品だ。青春の純粋性を、いつまでの持ち続けたいという、北野武の本来のピュアーな人間性と、社会の歪んだ構造を、アロニーとして表現する、明晰な理性とが、この作品を、いつまでも新鮮で,みずみずしい作品にしている。
最期の名セリフ。
「俺たちもう終わっているのかな。」
「まだ始まってもいないよ。」
胸がキュンと熱くなって、明日への希望が湧くシーン。
二人が愛おしくて。
二人が自転車に乗って、校庭を回っている。
笑える場面が一杯あって、胸が痛くなる映画。人間が愛おしくなる映画。



これを書いていたら、小包が届いた。
母の日、アメリカにいる息子から、花が届いた。
今は、アメリカでサラリーマンに収まっている。
彼にも、青春時代があった、今もその中にいるかもしれない。
北野武が、この作品のシナリオに、「so what」と題を入れてい
た。息子は、高校の卒業アルバムに、好きな言葉は?
「what’s up」

  

Posted by アッチャン at 11:42Comments(0)映画

2013年04月12日

シネマ歌舞伎、勘三郎を中心に

  
     
 
 シネマ歌舞伎、最終日の前日、尼崎のシアターに、朝早く起きて出かけました。
新歌舞伎座の開場を記念して、全国の松竹系映画館で、一年あけて、月一、で
歌舞伎映画を上映中です。
 木曜日は、コナミが休みで、母に会いにいかない日なので、この時を逃しては、
行けないと思い、朝一番、尼崎に行き、大阪に出て、京都の映画館に、と、
一日中かけての歌舞伎、力が入るので、帰りの電車の中では、ぐったり疲れていました。
 無料で観られるので、友人を誘おうかと思ったのですが、きっと、また、忙しいから、と断られるだろうと思って、一人で。

1週間の延長上映でした。

 歌舞伎映画は、テレビの、衛星放送などで、開場記念で、やっているので、わざわざ、劇場に足を運ばなくても、ビデオもあるし、というのでしょうか、映画館は、空いていました。
 http://www.shochiku.co.jp/cinemakabuki/lineup/07/

 尼崎では、勘三郎親子の連獅子と、駱駝、との二作品。
連獅子は、2008年のもので、勘三郎も元気な頃のものです。勘九郎も勘太郎を名乗っていて、七之助と、3人で踊るのですが、涙なくしては観られません。
 ぴったりと息があって、奇跡的とも言われるくらい、見事な3人での、獅子の毛振りを見せてくれた舞台です。
 谷に落ちた、子供達の獅子を、あんじる親獅子の姿に、また涙。
勘三郎が、時折、厳しい目をして、二人の踊りを見ているのも、涙。
 子獅子が、親に、まとわりつくようにして、一緒に舞う姿に、また涙。



 映画ならでは、大写しなので、着物の模様から、表情、手足の微妙な動きまで、つぶさに見えて、素晴らしかった。
 午前中は何度もトイレに行くので、観ている間、ずっと我慢していて、終わると、暗い中、あわててトイレに。
歌舞伎映画は、途中に、10分間の休憩時間を取っているので、あわてることなかった。
次は、「駱駝」
 三津五郎とのコンビで、お腹をかかえて、大笑い。
舞台の中で、弥十郎扮する、大家のおかみが、三津五郎が、死人を躍らせるのを、怖がって、軒下に頭から落ちてしまうシーンで、勘三郎は、おかしすぎて、頭を下げて、身体を震わせて笑っている。ハプニングだったのだろう。アドリブが入ってした。
テレビの舞台中継で観た時よりも、面白い。
三津五郎が、お別れ会で、勘三郎と、もっともっと一緒に、楽しい舞台をやりたかった、と述べていた。随分、沢山の舞台を、勘三郎と三津五郎のコンビで、映じている。尼崎の劇場で、勘三郎の舞台を二作品見たあとで、
 
 京都に、走って、観た、「身代わり座禅」でも、勘三郎と、三津五郎とのコンビで、息のあった、彷彿転倒の笑いを提供してくれている。

 

「身代わり座禅」は、何度も見ている。狂言の「花子」から、取った作品とか。長唄と常磐津の掛けあいで、松の木を背景に、狂言風に演じられる。
 ,歌舞伎では、6代目菊五郎と、7代目三津五郎のコンビで、初演。6代目菊五郎の孫にあたる、勘三郎と、7代目三津五郎のひ孫にあたる、三津五郎の共演の舞台
因縁のある出し物で、この舞台は、2010年の、歌舞伎座さよなら公演のもの。
勘三郎の声が、少しかすれているのが気になった。
京都では、玉三郎主演の、松緑と菊乃助とで、舞の舞台「蜘蛛拍子舞」
 http://www.shochiku.co.jp/cinemakabuki/lineup/12/

玉三郎は、美しい姿が似合う。蜘蛛のメイキャップをして、口に中を赤く染めて、
目をむき、口をかっぴろげる、紅葉狩りや、この蜘蛛拍子の凄い形相は似合わない。
玉三郎自身は、きっと楽しんで演じているのだろうけれど。
  

Posted by アッチャン at 15:35Comments(0)映画

2013年04月09日

映画「ある海辺の詩人」

 
    

http://www.alcine-terran.com/umibenoshijin/

 ある海辺の詩人
シネリーブ梅田で上映中です。
ベニスに近い、ある海辺に、配属されて、働きに来た、中国人の女性に思いを寄せる、ユーゴスラビア出身の漁師は、彼女に故郷の海で漁師として働く父親と、そこに預けている息子への思慕を引き寄せてくれる存在になっている。
彼女は、詩のお祭り、という、儀式で、子供と一緒に暮らせることを願っている。
漁師は、海辺の詩人と呼ばれている。言葉のごろ合わせをするから、と言う。
漁師は、中国語の歌うような言葉に惹かれる。
二人を引き寄せるのは、共に、イタリア人ではない、という異国人という、そこに馴染めない違和感と孤独感。
海の匂い、輝き、風が二人を包む。幸せを感じる、安らぎの時間も、イタリア人に寄って、奪われる。猜疑心とよそ者を受け入れることの拒否に
引いては返す海、潟に、そのまま留まって、外に出ていけない水もある。
そうではだね。出ていかないと、自由にはなれない。幸せはつかめない、と彼女と同室の、若い女性は言う。
彼女は、休みには、海で辺で海風に向かって、太極拳をする。風を切り、海のオゾンを胸いっぱいに吸い込んでは、掃き出し、海の動きを一体になって、身をゆだねる。
転職を命じられ、同室の彼女と別れて、また別の場所で、借金の返済に、働いている。
ある日、子供がやってくる。借金を誰かが返してくれたという。
あの老人の漁師ではないか、と一瞬思うが、違った。
同室の女性が、ある日、お金を置いて、そこから逃げ出したのだった。
淀んだ水に留まらず、自由を獲得するために、海に出ていったのだった。
心を寄せていた人が、去り、すっかり希望を失った老人の漁師は、彼女に、海の小屋を残して、息子の所で死んだ。
彼女なら、本当のお葬式をしてくれるだrぷという遺言を残して。
小屋に火をつけて、老人が愛した小屋が燃え上がる。
ちょうど、それは、彼女が、信じ、願いを込めて、水辺に浮かべた、「詩人の祭」のように、
赤い紙に,ろうそくを灯して、流れていくかのように。

心に染みとおるような、詩的な映画です。ベニスに似た、海辺。家の中にまで押し寄せててくる水の中で、長靴を履いて暮らす時間。いつごろ引くのかしら。時間が来たら。


ボスの言うままに、働く彼女が、「シャツを20枚、縫うように言われたら、私は30枚縫う。」というセリフが冒頭に出てくる。
閉ざされた境遇を、跳ね除けて、海に出ていく、水のように。


  

Posted by アッチャン at 11:49Comments(0)映画

2013年04月02日

映画「フライト」

     
   


http://www.flight-movie.jp/
 
 デンゼル、ワシントン演ずる、アルコール中毒のパイロット。彼のパイロットとしての腕は並外れている。
間一髪で、乗客のほとんどの命を救った、英雄だが、そういう事故を招いたのは、彼はアルコールを浴びていたから。
操縦前夜、彼と共に、アルコールを飲酒していた、アテンダントに、アルコールの検出がされた、との報告委員会での、最終質問で、彼が飲んだ、アルコールを、彼女は飲んだと思うのか、と聞かれる。
彼は、その会議に出る前夜まで、8日間アルコールを絶ち、親友の家に泊めてもらっていた。前夜、用意されたホテルの部屋にもアルコールはおいていなかった。外には厳重な監視人を置いていた。アルコールが入っていたということが、明るみに出れば、彼は終身刑に処せられる。弁護士や周りの人たちは、アルコールの事実を隠し、証拠をつぶして、最終審査で、勝利を得るはずであった。
神の仕業か?隣の部屋の鍵がかかっていなくて、彼は物音に引き付けられ、アルコールの置いている部屋に入る。飲んではいけない、と一旦は踏みとどまるが、翌朝、アルコールを浴びて、バスタブの所で倒れている所を発見された。
しゃきりさせるのは、常用している麻薬の専門家を呼ぶしかない。パイロットは、事故の当日の朝も、アルコールでぼやけた頭を、麻薬で生き返らせて、操縦していた。
悪天候の中、気持ちがハイになっていて、危険を承知で、空に飛んだ。危険な操縦だった。乗客は、ものすごい揺れに怯え、危機を脱して、安定飛行になると、安心して手をたたいた。パイロットは、乗客の前で、挨拶して、飲み物のサービスは、安全のためにないことを謝罪した。飛行時間は、アトランタまであと20分くらいしかない、。
彼は、自分だけ、ウオッカを入れたジュースを飲み、操縦を副操縦士にまかせて、寝ていた。機械の故障で、飛行機は操縦不可能に。彼は目覚めて、アテンダントも手伝させて、背面飛行で、着陸する。火を噴く飛行機から、100人以上の客は助け出された。
パイロットと同乗した、彼女は、子供を助けようとして、亡くなった。
最終質問のほとんどは、無事にクリアー。最後に、との質問に、パイロットは、
「彼女がウオッカを飲んだのではない。私が飲んだ。彼女は子供を助けようとしていた。」
と告白する。



 1年8か月、彼は獄中にいた。アルコール中毒患者のセラピーに参加している。
決して認めようとしなかった。事故後、病院で知り合った、女性に、彼は自らの精神的痛みを和らげてもらおうとすがる。彼女も薬とアルコール中毒で、運ばれた女性。彼女は、彼にも、セラピーに参加を促すが、彼は応じない。
パイロットは、離婚し、息子とも会えなくなっている。アルコールの依存症が原因だった。

獄中で、彼は、「私は、アルコフォリックだ。離婚し、息子にも見放され、職場を失い、パイロットの資格も剥奪された。あと数年は、監獄の中だろう。
だが、私は、初めて、自由になった。自由の素晴らしさを知った。ある人達は、私を受け入れ、ある人達は、私を許さないだろう。だが、私は、初めて解放されて、自由になった。」

沢山の人の命を預かる、パイロットという職業は、ものすごい重圧の中での作業を強いられる。彼が、アルコール依存症になっていったのは、重圧に心が耐えられなかったから。
アルコール依存症であることを、認められなかったのは、彼がアルコール中毒患者でることを認める勇気がなかったから。自分への自責の念に怯え、アルコールに存する。

監獄への面会者達、彼を支援して待ってくれる人達がいる。息子がやってきた。
私が会ったもっとも尊敬する人、という題で、彼は父親をモデルにレポートを書くために。

私も、様ざまな抑圧を受けて、囚われて生活している。自由には、なれない。私が、私自身に課している、重圧。

映画の題名「フライト」という意味は、彼自身が、自由への飛躍という意味でも使われているのではないだろうか。
  

Posted by アッチャン at 11:56Comments(0)映画

2013年04月01日

映画「アンナ、カレーニナ」

   


  アンナ、カレー二ナ
トルストイの名作の一つなので、
誰でも知っているストーリーだけれど、
イギリ映画らしい、作品に仕上がっていて、
自然主義が、強調された作品になっている。


http://anna.gaga.ne.jp/

恋をしたことのない、アンナの眠れる情熱を引き出した
青年将校との激しい恋は、一見チャタレー夫人と比較されそうだが、
イギリスの持つ、自然主義の象徴である、チャタレーと森番との恋とは
相反して、フランス風の都会に毒された、自我と虚栄の象徴の破滅的な
恋であって、精神の束縛、を強調している。



トルストイ自身、貴族社会を嫌って、農村での生活を好んだように、
アンナ、カレーニナ、の中で、農村で生きる青年が、生涯ただ一人の女性
として、愛する、キティーに、求婚して断られ、深い切望と孤独感にさいなまれながら、
自然の中で、労働することで、精神が癒される。




アンナ、カレーニナを恋した青年将校を愛したキティーは、アンナへの憎しみを胸に
耐えながら、結婚への絶望感を抱いていた。
夫の浮気を愛ゆえに許しながら、子供たちを生み、育てている姉をみて、女の幸福など存在しないと思っていたが、姉に勧められて、田舎に来ると、心が解放され、自然に身をまかせている姿を労働しながら見た青年は、再び彼女に求婚する。
この夫婦の愛に、トルストイは、至高の愛の姿を見出している。
階級の区別なく、人種の偏見なく、キティーは、自然と平和を愛する女性として描かれている。脇役ではあるが、その存在感は大きい。
「戦争と平和」のナターシャには、アンナカレーニナのような情熱を持った女性で、妻のあるアンドレに、生涯の恋をするが、そんなナターシャを、そっと見守りながら、愛するピエールは、平和主義を貫き通し、動乱の世をくぐり抜けて、最期まで生き、ナターシャへの愛を貫く。
理性が屈服して、激しい恋に翻弄され、破壊的な運命をたどらせるのも人間。
フランスのフローベルは、「ボバリー夫人」にそういう人間の情念の愚かな現実を描いている。
トルストイ自身、そういう情熱に、翻弄され、囚われ、苦悩した人間だったのではないだろうか。
悪妻と言われた、妻の虚栄と浪費的な女の恋のとりこになっていただろう。
自然の中で、働く農民と暮らすことで、トルストイは、心の平安が得られたのだろうか。
駅舎の中で、亡くなったトルストイは。



アンナ、カレーニナの中で、アンナの夫に、ジュード,ローが演じている。
この映画の最重要の、主人公と言っても良い人物を演じている。
この人物こそトルストイの理想とする人ではないだろうか。
本当の意味での、博愛主義の人、平和主義者として、描かれている。
苦悩を抱きながら、許し、憎めず、愛する人物。物静かで、怒らず、心をいつも平然と保っている。キリストのような存在。静かな面持ちの中で、澄んだ目が、パッションを秘めている。ジュード、ローなれではの、はまり役だと思う。
最期の場面、真っ白な花が咲き乱れる、平原で、彼は、子供たちを遊ばせながら、本を読んでいる。
アンナが愛した、息子と、彼女が恋人との間に生んだ、女の子。
 息子は、腹違いの妹を、抱きかかえて、遊んでいる。愛する対象を、母親から、その娘の中に見出したのように。
美しい、自然と、身に優しく振りそそぐ風に乗って。
  

Posted by アッチャン at 12:17Comments(0)映画

2013年03月29日

映画「愛、アムール」


   


アムール「愛」
老夫婦に起こる現実を映画化した、作品。
脳梗塞で半身不随になった妻を、看病する夫。
二人は音楽家だった。
妻は認知症が進み、夫は、老老介護に体力も気力も
失って、妻を枕で抑えて、死なせる。
妻を先立たせ、自分も自殺する。
看病にかかる金銭問題。
離れて暮らす、娘夫婦は、老人の現状を把握できない。
自分達だって、若いころはそうだった。
たまにやってきて、あれこれ指図をしたり、医者に見せろとか、
病院に入れろ、というだけで、引き受けるわけではないし、
現実に、それは無理な話なのだ。
「生活」がある。



アムール「愛」が、夫婦を結び、長い、幸せな人生を、二人に
もたらした。
二人の間に出来た、娘は成長し、恋をして、結婚。
彼らは、また、愛で結ばれ、愛しあって、暮らしている。
妻は、今の姿を、人にも、娘にも見られたくない。


新進気鋭の若いピアニストが訪問し、教師の半身不随で硬直した手、弾けなくなった姿を
見た、教え子のピアニストは、のちに、「会えた嬉しさと落胆」を覚えるという手紙を、
彼のCDと共に、送って来る。
彼のピアノを聴いていた妻は、手紙の言葉を聞き、止めてくれと頼む。
彼女は、もはや、彼の教師ではなかった。



病院に入れないで、夫が彼女の世話をし、通いの介護を依頼した。
妻は、夫にだけ心を開く。
言葉を失っても、夫にだけはわかる。
疲れ果てた夫、世話をする力がなくなって、
やがて、終わりの時が。



日本でも、老老介護に疲れ果て、連れ合いを殺害する事件が
時々起こっている。
人間が、最後まで人間らしく生き、死んでいくには?
主のいない、アパートに、娘がやってくる。広い空間。
部屋を見渡しながら、座る娘。

アムール、A MOURIR   RIRE 

愛とは、「死んでいく」「死に向けて」と、RIRE 「笑うこと」

 という二つの言葉でできている。




 映画館の傍にある、公園で、桜の花がでに満開だ。

 日本の桜、

 散り際が良い、潔い、つかの間の命を燃やす花、として、古くから

 日本で愛されてきた花




 命短し、というのは、過去のこと。

 昔は、人間50年、と織田信長が言ったように。
 今は、100歳か白菜か、金さん銀さんの後を続く
 長生きの時代。

 桜を命に例える人も少ないだろう。

 寛一お宮じゃないけど、「千年も万年も生きたい」との
希望に向かって、先端医療技術は突進していく

してみると、愛が欠如しているのは、当たり前のことなんだ




 花より団子で、美味しいランチ、栄養を考えて、ちまちま
一杯入ってます。 
サラリーマンに人気の店のようで、ちなみに、お値段は880円
映画のチケットで、10パーセント引きです。

 他のお客は、800円のランチ。どこが違うのか、わかりません。
 同じようなのですが、小さなたらこと、しいたけが、入っているか
いないかの違いでした。
 ご飯も味噌汁も、お変わり自由。



どれでも高い、という人は、隣のカツどんの店に並んでます。
ここは、「がんばってます。600円」の店でした。  








  

Posted by アッチャン at 13:43Comments(0)映画

2013年03月19日

映画「千年の愉楽」




  http://www.wakamatsukoji.org/sennennoyuraku/

  若松監督の遺作となった、「千年の愉楽」を梅田のテアトルで観た。
 生まれて、死んで、生まれて、死んで、生まれて、死んで,人間の輪廻が繰り返される。  殺されても、践まれても、生命は、底からふつふつと沸き上がってくる。
 生き血を吸って生きる、バンパイヤーというものを、想像して作品になった、「ドラキュラ」は、生き血を吸って、永遠に生きながらえている。
 この映画の中で、女の亭主に刺されて、血を流して死んでく,若者は、肉親の血のたたりだと言って死んで行く。
 次に出てくる、若い男は、平々凡々にただ生きていくことなんか出来ない。頭に血が上り、血が騒ぐような、危険な行動を求めている。そこに、泥棒に入る事を誘われて、待ってましたとばかり飛び乗る。最後はおぼれた女の亭主に刺されて死ぬことに。
 最後の青年は、北海道の建設現場に行き、抵抗運動で死んだ、と風の便りに。
 彼らは皆、飯場で働くか、山に入るか、の肉体労働者。彼らを取り上げた、助産婦は、「どんな状態にあっても、私がここにいる。」と言って、有りのままに受け入れる。彼女は、命を取り上げ、この世に送りだす、、千年生き続けている、森の魔女、のような存在でもあろうか。
 女というものの存在は、「命を生み出すもの」で、男というものの存在は、「血を流して死んで行くもの」
 女が男を引き寄せ、死なせる。自然界の全ての生物がそうであるように。
 
 男達は、戦争が好き。暴力が好き、血を見ることが好き。血気に及んで、血判して、刀を振り回して、死に急ぐ。
 何故?男は女に捨てられ、殺されて、生きているからだ。母胎回帰の夢を夢見て生き、死に場所をもとめているからだ。

 DNA的に言えば、元々は人間は女から出来ていて、何かが足りないと、男になるのだそう。
 そういうことから推察すれば、やはり、欠けた部分、失った部分を求めて、完全な形になりたいという願望が、どこかにあっても不思議ではない。

 女は、戦争を嫌い、平和を望むのは、元々、完全で安定しているからだし、命を生み出すものとして、生は受け継がれるから。
女は、子供を産み、母親になると、強くなる。男にはそれがない。女の中で、何千回と死んでいる。  

Posted by アッチャン at 01:27Comments(0)映画

2013年01月28日

レ、ミゼラブル、は、永遠のテーマ。

  


 朝、雨戸を開けると、雪景色。
  ゴミ出しに、」雪靴を履いて、エッジをかけて、よちよち歩く。
  坂道なので、滑らないように、転ばないように。

 スタッドレスのタイヤを買って、やっと出番かな、とも。すでにタイヤの跡がって、凍っている。
 昨日は、尼崎に、再び「レ、ミゼラブル」を観に行った。
  二度目の映画版なので、舞台での先入感が取れて、どの俳優も、適役だと思った。
 特殊メイクが、ジャンバルジャンの変容を見事に作りあげている。コンタクトレンズが 出来てから、目も変えることが出来るようになって、「目は口ほどに物を言い」ということも、特殊メイクで変えられるようになった。

 最近では、家で、映画のビデオが沢山見られるので、わざわざ、映画館に足を運ばなくても、と思うのだけど、劇場に行くと、違いは歴然とする。
 元気な頃は、何本でもはしごして観られたけれど、映画が結構疲れるものだ、と感じるようになった。
 身体のどこも痛くなかった頃がなつかしく思えるが、あちらこちら、まだ痛いと思えるうちは、ちゃんと神経が働いていて、人間が死ぬまで、動体である証拠。



 ジャンバルジャンは、最後に、「今こそ、神の身元に迎えてくいださい。私は老いて、準備は出来ています。」と心臓が弱って、声が続かないような歌い方で、歌う。
 若い頃は、あれだけ、息が続くものかしら、というくらい、肺活量を持って、力強く歌い、無類の力持ちだったジャンバルジャンが、老いて自分の愛するコゼットの元を去る時には、銀の燭台を入れた、わずかな荷物を馬車に運び入れることにも、よろけるほど弱っている。 無理に無理を重ねてきた。酷使した体。イエスが、血であがなった愛で、悪の罪から、救われたジャンバルジャンは、生まれ変わって生きる。「愛する時、神の側にいる」という言葉は、まさにイエスのように人を愛し続けた、ジャンバルジャンが、神の元に迎えられるにふさわしい言葉。
 法は、人間が作ったもの。真の法は「神」の法であり、それは「イエスの愛」


 
私には、忘れられない言葉がある。
   関学のチャペルで、今にも息を引き取ろうとしている人の、メッセージが、流された。病を得たことを神に感謝し、信仰に生きられたことを感謝し、幸福です、との最後の言葉だった。
 結婚して、子供達がいて、幸せな人生だった。病を得たこと、神に試練を与えられたことで、私は、感謝し、神の愛をそばに感じることが出来た。
 まだ、成長期になる子供達と別れて行く辛さ、子供達が愛する人に成長し、愛する人と結ばれる事を、見届けることが出来ないけれど、全ては神の御心なのです。
 私は、神の愛を身体中に感じ、感謝の気持ちで一杯です。

 そのような言葉だったと記憶している。一言言うのにも、大変な状態で、あえぎながら、とぎれながらのメッセージが、関学の本堂の中に流された。

 私も、他の人達も、皆、感無量で聞いていたと思う。涙を流して聞いていた。

 私も含めて、このような神の側にいる人の、言葉を聞いている、人間達の、現実は、というと、とても神の愛からは遠い。
よこしまで、猜疑心が強く、打算的で、自分達の幸せだけを優先して生きている。




 レ、ミセラブルに、出てくる、よこしまな夫婦、時代の荒波をうまく泳ぎながら、
 底辺で生きている、ユーモラスな夫婦が、ジャンバルジャンを救う役割を
果たしている

 良いは悪い、悪いは良い。



 欲ぼけの私は、尼崎から宝塚までのJR320円、それから西宮のコナミに行くのは、お金も時間もかかるので、
 大阪に出て、阪急に乗ろうと思って、チケットを買う時に、JR西宮から歩けば良いということに気がついた。
 
 歩くこと20分、寒かったけど、コナミの暖房した中に入ると、身体が温かくて、汗がにじむほど。


 葉を落とした、裸の木が美しく、冬空に、すっくと立ち上っていた。  

Posted by アッチャン at 14:00Comments(0)映画

2013年01月21日

映画「東京家族」


   



「東京家族」を、私は全くの先入感なしに、山田洋次監督独自の作品
なの、と見ていると、これは、「東京物語」のリメイクであることに気づいて、
 「東京物語と否応なく比較され、山田洋二監督は、「東京物語」がいかに、普遍的かつ、孤高にある、永遠不滅の作品であることを、証明している、と思いながら、見ていた。

俳優達にも、違和感があったのだけど、見ているうちに、私自身の、肉親や親子の関係におきかえ、親近感をもって見ていた。
 東京物語 では、原節子が、亡くなった次男の嫁を演じていて、血を分けた肉親よりも、
他人のあなたにこんなにも優しくしてもろうと、と母親役の東山千恵子が言う。行き場を失って、母親は、次男の嫁のアパートに泊めてもらい、嫁からお小遣いまでもらう。





http://www.tokyo-kazoku.jp/

 山田監督は、「東京家族」という作品に、小津自身を、登場させていることに、映画を見終わって、私は気づいた。だから、この作品は、小津監督に、捧げるという献辞は、より深く生きている。
 父親は、東京物語に出てくるような、「優しい、ものわかりの良い、古きジェントルマン」ではなく、「娘は甘やかし、息子達には、厳しすぎる父親」に作り変えられている。
 次男の、妻夫木が演ずるのは、親に心配をかけてばかりいる息子で、将来の設計もたたない、好きなことしか出来ない息子。父親は、長男と次男を比べては、だめな息子だと決めつけていた。立派に育った長男は、親を棄てて、東京で開業する医者。可愛がって育てた娘は、打算的で、自分本意の人間になっている。
  リヤ王ではないけれど、末娘のように、父親が認めなかった、だめな息子が、
 母親に似て、優しい息子であったことを、父親は、一人残されて、知るようになる。
東京物語では、母親の葬儀が終わって、さっさと帰る長男とと長女。
杉村春子が演ずる、長女が、母親の着物をもらうからら、と言う場面があるが、東京家族では、次男が、長女に「今そんなことを言うことはないだろう。」と怒りをぶちまける。
 母親が倒れる前日に、母親は、次男のアパートに泊まり、そこで、結婚の約束をしている、彼女、(蒼い)を紹介する。それが原節子が演じた、次男の嫁、という設定だろう。
 優しくおもいやりのある女性で、お葬式に次男と一緒にきて、父親を残して、東京に帰ることをためらい、世話をする。
 頑なで、心を開かない父親が、母親の形見の最も大切な時計を、彼女に手渡し、
 良い人と結婚する息子に安堵し、息子を頼むと、深々と頭を下げる。
次男は、母親に似た、優しい息子であることを、父親は、家族に棄てられて、初めてわかるようになる。




  小津安二郎は、生涯結婚しなかった人だ。輪廻と無常観を、家族の生活、人生、関係の中で描いた人で、孤独の人、とも言われるけれど、「母親との繋がりの深い人」だった、と思う。

 私は、東京家族、を見て、最後になるにつれ、泣けて、泣けて仕方がなかった。
 終わった頃には、目がくしゃくしゃになっていた。
 一人ぽっちだという思いは、がらんとした家の中で、ふと風がよぎろうに感じるこがしばしば。
  次男と、息子が重なって見えた。
 。

 息子と結婚してくれる人がいたことに感謝しなければ。
息子が幸せであれば、それで良い。

東京家族は、私の家族なのだ。
 あの母親のように、頑固な父親に寄り添って、全てを受け入れる、聖母か仏様のような母親とは、ほど遠い私の様な母親に、優しい息子を期待するのは、言語道断。
奥さんに優しければ、それで充分。 

隣で見ていた友人も泣いていた。
 脳溢血で倒れて、翌日亡くなったお母さんのこと、思っていたのな、と思ったら、お父さんが亡くなった時のことを思い出していたとか。

東京家族
 
 これは、現代に生きる、私達家族の問題で、山田洋次が「寅さん」で描いた、東京の下町の人情、熱すぎるほどの人情とは、相反する、リアリズムの現実を描いた作品

映画の部屋は、すごく狭くなっている。
  現実には、もう少し、広いはずだけど、小津作品は、固定カメラを使っているのを、山田監督は、環境に右往左往でひしめきあう、人間の肥大化を図っている。

 夫婦で、海を眺めるシーンは、どちらの作品でもあるが、夫婦が、生きたここちと安らぎを覚えるシーン。自然主義を人間の心のよりどころに置いたシーン。  

Posted by アッチャン at 11:57Comments(0)映画

2013年01月19日

映画borderline]


    



夏の、しばらくの間、早寝早起きしていたのに、またルーティンに戻って、夜中まで起きて、朝が遅い、悪習慣に戻っている。
 光熱費もかかるから、さっさとベッドに入った方が良いのに、映画を見出すと、それが終わるまで寝られない。
 テレビの番組がつまらないので、ケーブルの映画チャンネルに切りかえると、次から次に,映画を見てしまう。
 昨夜も、コナミが休館中なので、そろそろ寝ようと、お風呂を湧かしている間に、新しい映画をやり始めて、
 それが終わるまで見ていたので、お風呂に入ったのは夜中になってしまった。
 
フランス語の作品だったが、これはフランス映画ではないな、と思っていたら、カナダの,ケベックの作品だった。

http://www.imdb.com/title/tt1048147/

原名は、「borderline] 
 境界線という題名。日本では、未公開の作品で、ビデオは販売しているらしい。
 
 大人向きの映画なので、夜中に放映しているのだろう。
 フランスから見れば、カナダのフランス語圏は、田舎者というイメージがあるが、
 フランス映画のような、エスプリの効いた,洒落て洗練された所のない映画だけど、
 真面目で、人間の生き方を映画に反映させるような映画作りが大好きなカナダ人気質が伺える作品。

  薬物依存症で精神病院には入っている母親と、その母を溺愛した祖母と、愛しかたのわからない娘。
 依存症は、「愛が欠けていること」による、空虚や孤独から無意識的に逃れようとして、必死にしがみついている状態。
 薬物、アルコール、書くこと、描くこと、などは、「愛の欠如」を埋める手段なのだ、という考えにたって、この映画は作られている。

 この映画を見終わって、お風呂に入り、その後、NHKで、東大震災の、ヨウソの広がり、影響などの調査分析のドキュメンタリーを見た。
  見えない死の恐怖にさらされて生きていかねばならない,幼児や子供達。犠牲になるのは、抵抗の出来ない、受け入れるしか出来ない、子供達。  

Posted by アッチャン at 13:00Comments(0)映画

2013年01月08日

映画「レ、ミゼラブル」

 


 
http://www.lesmiserables-movie.jp/


ミューカルで、何度も観ている、「レ、ミセラブル」だけど、映画は、リアリティーを映像化出来るので、1830年代のパリの街、住んでいる人人の姿など、事細かく丁寧に作られていて、凄かった。
 尼崎の映画館は、新しいので、音響効果も良く、一緒に行った友人が字幕がよく見えるように、と真ん中から少し前に席を取ったら、音ががんがん響いて、失敗し5たかな、と思っていたが、実際に,始まってみると、全く気にならなくなって、そのど迫力を堪能。
 
 最初から最後まで、聞き慣れた、曲ばかりなので、それが、ミュージカルの良さを増してくれる。
 最初の、船底で鎖につながれて、働く,ジャンバルジャンは、年老いて、目つきも鋭く 人間らしさをすっかり失ってしまったように,眼光だけが鋭い人物、メイキャップ効果なのだろうけど、その後、教会から盗んだ銀食器を、牧師から,神様のギフトだと与えられ、生まれ変わって、数年後、市長として登場する時には、全く別人のよう。
 善良で優しく、ヒューマニズム溢れた紳士に変身している。




  大写しの映画だから、ごまかしが全然効かないので、同じ俳優が演じる二しても、年とは別に、人格まで変わるので、そのリアリティー溢れる、ミュージカルの映画化で、最も素晴らしい出来になっているのではないだろうか。
 出演者も全員が,自分の声で歌っていて、吹き替えではないというから、そういうことからも、いかに、このミュージカルに、リアリティーを求めたかが、想像出来る。

 撰んだ俳優の中で、最もはまり役は、ちびとよばれる、少年だったと私は思う。
あれだけの逸材を見つけるのに、随分、子供達の中から探したのではないだろうか。
 可愛くて、、見事に演じている。歌も素晴らしい。

 ジャンバルジャンの気品性を表現するのに、撰ばれた、ヒュー、ジャックマンは、イギリスの俳優で、以前に、メグライアンとの共演で、前時代プリンス役でも知られている。
 ジャベール警部には,最近の映画では「シンデレラマン」で貧しい底辺の暮らしから、腕と力でのし上がる人物を演じている。彼の名声を確固たるものにしたのは、剣士の役所で、今回の,正義だと信じて,執拗に追い求める,ジャベールの役には、ぴったり。



 そのほかの役も、皆素晴らしい。
 頼りないくて、善良,貴族の血もぬぐえない,マリウスも、ぴったりのはまり役。
 ジャンバルジャンと修道院で育った、コゼットは、清らかで、天使のような美しさを表現出来ていて、アマンダ、セイフライドはぴったり。

 若い恋に燃えて、男は去り、子供を産んだ、フィンティーヌ役のアン、ハサウェイも、熱演。声も良かったけれど、私のイメージとしては、ちょっと違う感じ。もっと小柄で、 母性的で,マグダラのマリアを泉のように、透明にしたような女性。そんな表現にぴったりで、ソプラノが歌える女性はいないので,映画だと、難しい。



 このミュージカルは、最初は、梅田芸術劇場が、まだ梅田コマだった頃、鹿賀さんと、滝田さんとの、ダブルキャストで、話題になって、何度か観に行った。
鹿賀さんの、ジャンバルジャンは、声が透き通って、美しく響き渡るのと、哀愁のある「歌い上げで、素敵だった。
 スッカリ、日本語で馴染んだ,ミュージカルなので、ブロードウェイで観た時も、きっとなお感激出来たに違いない。

 初めて見る,友人は、本で昔,読んだことがあるだけcで、初めてなので、本ほどの感激はなかったようだ。

 私も,マーガレット、ミッチェルの「風と共に去りぬ 」を何度も愛読していて、映画を観て、アシュレーにがっかりした。
 その後、何度も映画を観ていると、アシュレーは、ぴったりのはまり役だという思いに達した。昔の亡霊を抱いている,頼りない人。プライドばかり高くて、メラニーがいなければ、存在していないのも同じような人物。

何故、マーガレットがあれほど憧れたのかしら。それは、彼女にない、気品だった。アイルランドからの移民を父親に,持つ、スカーレットだから、父親とそっくりな性格で、アイルランド人なのだ。下品と言ったらなんだけど、スカーレットは、成り上がりで、アイルランドの暴れ馬。
レッド、バトラーが彼女に惹かれたのは、その野蛮性と自由さ、意志の強さ、我が儘。
レッドバトラーは、アシュレーを否定しながらも、チャールストンの名士の出。もともと紳士なのだが、家のアウトサイダー的な反抗心から、 皮肉な目で、観ていたわけだが、名誉を胸とする,紳士なので、負ける戦に,身を投じるようになる。



 すっかり脱線してしまった。
 レ、ミセラブル、これから、何度も観に行くことになるでしょうけど、
 怠け者の私、最近では、一人で行動することがすっかり,少なくなって、
 一人ではなかなか腰が上がらない。約束してないと、いつでも、になって、その日を逃してしまう。  

Posted by アッチャン at 12:01Comments(0)映画

2012年12月15日

映画「コックと泥棒とその妻と愛人」

    


   

http://www.youtube.com/watch?feature=player_embedded&v=nXLRdeYFHss


   友人から借りていたビデオ「コックと泥棒とその妻と愛人」という映画を観た。
 殺した鳥の毛をむしり、料理をするコックを、腹を空かした泥棒は、口から入れる食事を待てないで、わめきちらしている。
 映画の冒頭の部分で、人間の欲望を映像で表現している。
泥棒に、痛めつけられ、裸にされた男が、厨房の中に、入ってくる。
 コックは、椅子を差し出し、泥にまみめた身体をホースで洗い流された男は、うちひしがれた姿で椅子に座らされる。この男は、キリスト、イエスを表現している。
 天使のような声で、罪のあがないを歌い上げる、金髪の子供。

 ああ、なんと罪深い存在であることか、人間の欲望の、なんと醜悪であり、そしてそれが愛と呼ばれ、神秘なもの。

 グルメとは、欲望の果てなきもの、渇きを癒すもの、人間の恐ろしさ、殺戮の血を求めるがゆえの美、食らいつくすことの欲望。

 この映画、私の好みではないけれど、五感にするどく訴えてくるので、秀作の一つであることは確か。
 ディーバを思わせる、美術と撮影、心臓の鼓動を刻むような、音楽のリズム。
 レストランの中の客達は、時限の違う世界で、食事をしているようで、メインテーブルに座って、最後の晩餐、さながらに、悪人達の真ん中に、泥棒の親分が、絶えず、しゃべりっぱなしで、沈黙を恐れるかのように。

 5分しゃべると、愛が冷める。欲望を鎮めるのは、「言葉」
 本ばかり読んでいる、妻の愛人は、紙を詰められ、殺される。永遠の沈の世界。
 殺された愛人の口に入った紙を取り出して、妻は、そのそばに横たわって、亡骸に語りかける。
 キスしてくれないの?
食べることは、欲望。どんなにお腹が空いていても、口に入れ、満腹すれば、欲望は消える。 食べることを忘れ、妻と愛人は、キスしあうことで、満足することはなく、欲望が消えることもなく、愛は消えることがない。

  ルイス、ブリュニエル的な映画で、シュールな美的世界を、こういう手法で描いてる。美的な空間、舞台芸術的な空間を大切にすることで、映画芸術と呼ぶにふさわしい作品になっている。  

Posted by アッチャン at 16:10Comments(0)映画