2007年03月08日

画家を訪ねて、藤田の話




パリ在住40年になる画家を訪問した。 しばらくご無沙汰だったが、お会いすると、以前と全く
変わらない元気な方、以前にお会いした時に、プラスティックをつぶしたオブジェをいただいた。
今回訪問すると。所せましといろんなオブジェが飾ってある。石や木を森から拾ってきて、命を吹き込むというのが、作品作りの目的にある。忘れられ、朽ち果ててしまう、自然に人間が手を加えることによって、再び生き返らせようという試みだ。


 


 藤田嗣治の話になり、私が、京都での生誕120年の回顧展を見てきた印象を述べると、藤田を認めていないという答えが返って来た。
 パリに来て、モンパルナスのキキを自分のものにした藤田は、キキに日本の着物を着せたりして、
得意げに連れまわしていた。パリの寵児として持てはやされ、スノッブで、自分が常に上でなければならなかった。日本に帰り、戦争に加担し、民主主義と自由への弾圧で獄中に置かれた画家達が、戦後、藤田を非難したのは当然であり、そういう日本から逃げ出した藤田を評価していない。
 ピカソ、ダリ、ミロと3人のカタロニア出身の画家の中で、ピカソは卓越しているのは、「ゲルニカ」
を描いたから。ピカソの次にダリ、ダリは、誰にも迎合しないで、王室の注文にも風刺画を描いている。オランダのレンブラントが優れているのは「夜警」を描いているから。
 藤田が、戦時下に日本に帰らず、レジスタンに参加しないまでも、戦争に抵抗する絵を描いていたのなら立派な絵描きだと言える。何の為にパリに来て、絵を描いていたのか意味がない。
 そういわれれば,確かにその通りだ。

藤田は子供だったのだ。だだっこだった。戦争に対して、子供がわけもなく、戦争に行きたがるように。日本でつまはじきにあうと、パリに行けばいい、もう二本には帰ってやらないぞ、という態度で日本を離れたランスのシャンパン会社がスポンサーになり、藤田の礼拝堂作った。フランスでは、教会として認めていないとか。
 フランスで藤田の展覧会が出来ないのは、戦争中に、レジスタン運動に参加した画家達が、まだ生きているからだ、と。 自由に、表現したいという画家が、戦時下で、弾圧にあい、アメリカに行った画家も居れば、ドイツに帰った画家もいる。虐殺された人達もいる。日本に帰り、戦争画を描く
事を、拒否出来る環境にありながら、あえて、戦争に加担するのは、人間としては認めるわけにはいかない」、というのが、画家の見解だ。  

Posted by アッチャン at 08:13Comments(0)art