2007年08月03日

藤沢周平と「かくも長き不在」



 父は時代小説が好きで、本を読まない日はなかった。
生前、最後まで読んでいたのは、藤沢周平
だった。父の本棚には、父がカバーにお世辞にも上手いとは言えない字で、丁寧に題名を書いた
本が山のように残っている。
私は、映画「たそがれ清べい」を見てから、藤沢周平に興味を持つようになったが、まだ本には
手を出していない。最近、NHKテレビ18チャンネルで、「清左衛門、残語録」を再放送していて、
遅まきながら、毎週楽しみに観ていた。来週の火曜日が最終回だ。
藤沢周平の視点は、武士の意地を通すよりも、命を大切にして生きることの方が大切だ、日々の
生活の中に幸せがあるという事。けれども、友との信頼関係、友情の為なら命を投げ出して死をも
いとわない。藤沢の小説の中に男女間の思慕に、なんともいえない色気があるが、
それは押し隠した、一歩が踏み出さない男女の恋。心が切なく、熱く描かれている。
藤沢周平が平成9年に亡くなって、文藝春秋の臨時創刊が出た。私は父の書棚を開いて、
ビニールのカバーをした雑誌を見つけた。平成9年には、もうすでに父は他界している。
母が父を偲んで買い、丁寧にカバーをかけたものだった。私は、母がマンションに夜までいる間、
手持ち無沙汰で、なにか読むものは無いかと探していたのだ。
 ページを開くと、小説やエッセイ、藤沢周平を偲んで、対談なども掲載され、娘さんの手記が
あった。
それによると、藤沢周平は、映画が好きで、廃盤になっている映画のビデオが、
どこかにあれば見つけてほしいと娘さんに頼んでいたらしい。
そのビデオは、マルグリット、デュラスが、脚本を手がけ、アンリ、コルビが監督をした「かくも長き不在」という映画だった。私の好きな映画であり、特別の意味を持つ作品でもあった。
 私は嬉しくなった。藤沢周平という人物に親しみを抱いた。不思議だと思った。
 その本の藤沢周平のエッセイの中に、映画に関する文章がある。彼は随分映画を見たという。
アメリカの西部劇映画は、藤沢の時代小説に似ていると書いている。多分、ジョンウェインの映画を言っているのだろう。実らぬ、口にはだせない愛、男の友情の為に死んでいく、確かに、と思う。
父もまた、無類の映画好きだった。私は小さい頃から、週に何度も、父について映画館に行った。




「かくも長き不在」は、戦争に行ったまま、帰らない夫を待ち続ける、カフェの女主人が、
記憶を無くした浮浪者がセビリアの理髪師の歌を口ずさんで歩く姿をみた途端に失神する。
浮浪者を戦争に行ったまま帰らなかった夫だと思いこみ、彼の行動を追い、彼を食事に招待し、
好物の食事とチーズを用意して、一緒に踊ったダンスの曲をかけて、踊る。彼に記憶をなんとか取り戻してもらおうとすると努力するが、彼は記憶を失ったまま、ダンスしながら愛撫する彼女の手が
後頭部にある弾丸で出来た窪みの穴に触れる。
家を出た浮浪者に、トラックのライトが当たり、怯えた浮浪者は、逃げてどこかに行ってしまう。
いつかきっと夫は帰ってくる。彼女は待ち続ける。




 絶望の中にいて、ただ待ち続けることで、辛うじて生きる希望を支えている。
「かくも長き不在」は、戦争の惨さ、愛の深さ、狂気に至るまでのヒューマニズム、
永遠に待ち続ける事をテーマにしている。サムエル、ベケットの「ゴドーを待ちながら」という小説が
あるが、そこにも、来るあてのない人(ゴッド)を待ち続ける二人の会話がある。

 この映画の音楽が素晴らしく切ない。フランス映画の秀作だと思う。

   

Posted by アッチャン at 13:11Comments(0)映画