2008年03月04日

 巴里にて

 

 

 5時前に目が覚めた。外はまだ真っ暗だ。しばらくこのまま寝ていなければとベッドにいたが、頭に色々なことがよぎって来て、寝られないので、6時に起床。コンピューターを開いて、ブログを書き始めた。気がつくと8時になっている。昨日買っておいたクロワッサン、バケットの残り、サラダに残りのハム、今朝は卵もつけた。昨日買ったフルーツヨーグルトもデザート代わりに。豪華な朝食だ。コーヒーは、カルトノワールのエスプレッソ。 パリに着いてから、これで同じ食事が4度続いている。
 チーズはクリーミーなカマンベール、サラダの目玉はなんと言ってもシャンピニオンだ。真っ白で大粒のシャンピニオンをサクサクと切ると香りが浮き立つ。キュウリだってパリで買うのは直径6センチ以上もあって、長さは40センチくらいある。一本で相当使える。赤タマネギがないとサラダは締まらない大株のサラダ菜は、新鮮で葉がとても柔らかい。冷蔵庫に残っているリンゴ酢にオリーブ油、塩と胡椒をふるだけの簡単なドレッシングでも、野菜そのものに味があって美味しいから、それで十分だ。
 肉屋で買うハムも味が違った。スーパーでしか買ったことがなかったけれど、今回は、一枚ずつと頼んで、店の自慢のハムと、生ハムを買ってみた。旨さは別格だ。もうスーパーには戻れない、と思う。生ハムは、従姉妹が車で連れて行ってくれた、フォアグラの産地の友人宅でもらった手作りハムを思い出させる。最高のハムだそう。ミツバチの蜂蜜を作っていて、その巣箱から密を取る作業もさせてもらった。従姉妹が友人宅に滞在するのに、誘われた。友人のお父さんは、一人で別荘を造っていた。従姉妹は電気工事のやりかたなどを、そのお父さんから習っていた。それが彼女の目的だった。今回のレストラン工事にも役立って入いる。もともと彼女の義理の父親は、水道の配管工事を仕事にしていたので、小さい時から、やり方を覚えていて、お手のものなのだという。わからないのは電気工事で、それが出来れば、浴槽もキッチンもトイレも、自分で出来ると言っていた。生ハムがその記憶を運んできた。
 田舎の家の回りには、牛や馬がいて、一人で村を散歩すしていると、珍しい日本人がいるというので、知らない人に声をかけられた。
 「イベット、ジローという歌手がいるでしょう 。日本に何度か行きましたよ。彼女はこの村に住んでいますよ。」とか、住んでいました。とか記憶ははっきりしないけれど、イベットジローがその村の住人だったということを教えてもらった。十五年以上前のことだ。

 


 友人がル、カマドーにも案内してくれた。今は亡き、トミーという,大きな黒犬も一緒に。毎夜食事は、バーベキューだった。お父さんが焼き肉の担当で、お母さんは威張っている。リモージュのお皿が、無造作に山のように積まれていて、従姉妹は、「値打ちものだ。沢山あるから、くれないかな。」と言っていた。
 従姉妹は、そのお宅にトイレットペーパーまで持参して行った。シャワーを使う時間を短くするようにと従姉妹から注意された。その時に、始めて、フランスでは、こういう風に気を遣わなくてはいけないのかと認識を持った。夕食の材料も、私達でそろえ、家族を二つ星のレストランに招待した。ガソリン代と、そういうことにのために私が誘ってもらったのだと今では思う。お陰で私は、普通では出来ないフランスの田舎での体験が出来たわけだが、絶えず従姉妹のいらだちの対象になってしまった私に雷のやまない日はなかった。友人が、やり場のない状態も、何度かあった。
今、思い出した。あの頃は庭にサクランボが実っていた。サクランボを取りながら食べることが、一番楽しかったことを。長いドライブの熱い車の中で、後部席に犬のトミーと一緒に乗っていた。そう、夏の暑さに、トミーは口から絶えず涎を流していて、私の服をぬらしていた、耐え難い暑さと共に。  

Posted by アッチャン at 20:48Comments(0)旅のグルメ

2008年03月04日

コンピューターが出来ない

  
  

パリのアパートで、高速のインターネットをする方法はないか、近くにあるフランステレコムに出かけた。順番待ちのカードをもらい、20分くらい待つと私の番が来た。
 インターネット、電話、テレビを一つにまとめて、一月29ユーロというのがあるが、これは1年契約の場合で、私のように一月でも解約できるのは、インターネットだけで26ユーロであると言われた。口座番号がいるので、アパートに引っ返し、銀行のシートを持って行くと、電話の契約者との名前が違うので出来ないとのこと。契約者にサインをもらわないと出来ないと言う。他には?と聞くと、日本でもあるランカード式のものがあると。それはいいと喜んだら、12ヶ月の契約が必要だった。他には、もう方法がない。ダイヤル回線だけだ。諦めるしかない。
 アパートに帰り、格安のテレフォンカードを買うために、ピラミッドまで地下鉄に乗った。ピラミッドはオペラ座から、パレロワイヤルへの大通りの中間地点にあり、観光客通りと呼ばれているように、旅行代理店や、日本食品の店、免税店などが沢山ある。日本書店のジュンクに、格安チケットがある。その隣には、日本観光客向けのツアーを扱っているマイバスがあり、中には日本人客が数人いた。




 テレフォンカードは、3ヶ月間に最長900分かけられるもので、料金は15ユーロ。マイバスにも、テレフォンカードを置いているが、こちらは20分とか30分の単位った。 随分差があるが、観光客は、それでも買っていくのだろう。
 シャトレまで歩いて、ポンピドーセンターで無料のコンピューターをするつもりだった、パレロワイヤルのコメディーフランセーズの前まで来ると、チケットを買う為に待つ人達の行列が出来ている。そうだ、私も以前によく並んだ。昔は7フランで最上階席のチケットが買えた。今はどのくらいなのか知らないが、私も並びたくなった。
 以前に「人間嫌い」の出し物を見たくて並んでいると、隣にはリヨンからやってきた婦人がいた。この芝居がみたくて、はるばるやってきたという。そう言う人も、売れ残りの特別料金のチケットを買うために並んでいた。今日も、沢山の人が、開演前に開くチケット売り場に並んで時間が来るのを待っている。開演は8時半、その1時間前になると券が買える。残り券だから、買えない人も出てくる。
 チケット売り場があくまで、まだ30分ほどあった。今日は諦めて、シャトレに向かって歩いた。夕食時で、レストランはもう満席の所もあった。レアル広場の回りには、沢山レストランがある。通りの角の店で、再び人の列を見つけた。ジャズライブのレストランだった。息子が来たら、一緒に来よう。これだけの人が開くのを待っているのだから、きっと人気の店に違いない。回りのレストランの人の入り具合を見ながらポンピドーセンターについた。さて、コンピュータを開くと、1年前のカウントがまだ生きていて、IDとパスワードを要求された。去年の手帳を持ってこなかった。新しく入れようとしてももう入らない。アパートに帰らないとわからない。無駄足だった。お腹を空かせて、地下鉄に。シャトレの案内所で、カルトオレンジのカバーをもらった。今まで使っていたのが破れていたからだ。新しいカード入れは以前のものとは形が違っていた。10年も使っていれば変わるだろう。幾つかの用足しをしながら、最寄りの駅まで帰ってきた。従姉妹へのみやげものを渡しに行くと、昨日と同様に、閉まって中は暗い。寝ているのだろうと、今日は扉を叩かずに帰ることにした。近くにあるカフェでインターネットが出来ると聞いていたので行ってみた。外のテラスにも人がいる。寒くないので、外でも気持ちが良い。

  


 アクセスカードをもらって、やってみたら、全くインターネットにアクセス出来ない。電波は、非常に弱いと出ている。設定がおかしいのかわからないけれど、全く出来なかった。このために、お腹が空いているのに、赤ワインを注文した。一番安いのがワインだったから。それでも3,9ユーロだった。すぐに日本に換算したくなる。小さなワイングラスに、一番安いワインを注文して、650円。ビールの方が良かったけれど、ビールの方がずっと高かった。これなら、シャトレの近くにあった、インターネットの店でやれば良かった。15分で300円、30分で600円だった。
 まずいワインを残して、夕食を買いにモノプリというスーパーに。10時まで開いている店は、店じまいの真っ最中だった。何も買えず、アパートに帰った。明日の為に買ったパンと、サラダ、チーズにワイン。疲れていたので、お腹が満たされ、ワインが廻ってきると、テーブルでコクリ、コクリ。しばらくテーブルの前で寝ていたみたい。
 11時にはベッドに入った。そのまま後は知らない。  

Posted by アッチャン at 20:41Comments(0)日々の事

2008年03月04日

巴里到着

  

 
 


雪舞う関空から、飛行機が12時間後に降り立ったフランクフルトの気温は12度、パリのシャルルドゴール空港には、フランクフルトからわずか45分の飛行時間で、まだ空は明るかった。ダウンがじゃまなくらい暖かく、季節感が薄れる。
 空港のチケット売り場で、3月分のカルトオランジュ(定期券)と、空港からパリまでのカルネ(回数券)と、パリ内で使用するカルネをまとめて買った。クレディリオーネで作ったVISAカードを使って現場で買い物をするのは初めてだ。去年パリに来た時に勧められて作った。それまでは、チェックを書いて、お金を銀行でおろしていたので、不便だったが、カードがあるととても便利だ。ほとんど現金を持たなくても、このカードでどこにでも通用する。そのかわりに年間80ユーロくらいかかる。考えてみれば、それほど買い物するわけではないので、日本のクレジットで、払ったほうがずっと安く付く。
 さて、空港からPER11,12番線と書いた改札を通ったはずだったのに、プラットホームを見下ろすと、4,5番という文字が見えた。これは間違えて入ってしまった、とあわてて、階段を下りかけたら、そこを降りても同じ場所にしかけない。引っ返して、キョロキョロしながらあわてていると、荷物が引っかかって、ズテンと転んでしまった。胸と膝を激しく打って、痛みが治まるまでしばらくひっくり返っていた。着いたとたんにやばいことになった、と思ったら、そう思い出した。前回のパリでも、つまずいて、同じような所を打ち付けたことを。足下を注しないのが、私の欠点だ。不用心、心と体のバランスに欠けている。以前に、自転車がぶつかってきて、鎖骨を折ったのが原因で、右間接の痛みが最近出てきた。医者は、最終的には手術しかないでしょう、と。雨の中で、バスを待つ人の列に転んだり、つまずいて転ぶとういうのが、まるで私の得意技のようになっている。嬉しくない技。

 


ようやくアパートにたどり着いた。近くの近くのスーパーまで足を伸ばす。従姉妹のレストランはどうなってるだろう。夜も営業したいと言ってたから、まだ開いているかな。行ってみると、鉄のドアは閉まっていて、表に植木が沢山置いてある。扉を叩いたが、中は暗い。旅行にでも出ているのだろうと、引っ返しかけると、二階の窓から従姉妹が顔を出した。寝ていたようだった。中に入ると、ギャラリーに、椅子とテーブルがぎっしり詰まっている。すっかりレストランになっている。始めて2年、ようやく軌道に乗ってきたという。それでもまだ、一人で人を雇っていないというから、彼女の働きぶりはいつもながら驚嘆に値する。13ユーロに値上げしても、パリの物価高で普通なのだそう。フランに換算すると80フランになる。昼の定食は、40フラン以下だったから、すごい値上がりになる。日本食ブームで、従姉妹の店は、他の店に比べて安いから、わざわざ来てくれる食通が増えて来たらしい。これからは、益々客が増えて来るので、そうなれば人を雇い任せて、彼女は再び絵を描いて暮らすという。彼女は、働きながら、絵を描いてきた。働いてお金を稼ぎ、絵を描くというパターンを繰り返してきた。今はお金を作るのに専念している。私は、そういう形で、人の心に響く絵が描けるのだろうか、と疑念している。絵が描けたら幸せだと思い、貧しい生活に甘んじる人の、自分の絵画にも自信もなく値もつけられない人と、世間の人並み以上の暮らしを求めて、働く能力の持ち主が、自分の絵画にも、それなりに高い評価をつけ、プロなんだからという絵画と、そのどちらのほうが、人の心に届くのだろうか、と。
 人はパンのみにて生きているのではない、と言われても、そうはいかないのが人間の悲しさ。10年間、仕事をやめて絵画にかけていた頃、彼女は「先は野垂れ死にするわ。」と私に言っていたが、そういうわけには行かなかった。貯蓄が底をつく前に、アトリエを改装し、貸しギャラリーとレストランに作り替えた。半年かけて、出来るところはすべて自分で作業した。私のような怠け者を見ると、彼女はいやみをいわなければ気がすまなくなるというのも、今では理解できる。昔、パリに来ると彼女のアパートでお世話になった。 私には、多大の貸しがある、と言われて以来、彼女への気持ちが変わってしまった。パリでの暮らすのは厳しい。貸し借りの関係でしか、つきあえないのかもしれない。日本は、島国なので、鎖国的だから、西洋にように「人を見たら泥棒と思え。」と思う人はほとんどいない。無防備だ。最近はそうもいかなくなってきたけれど、「人を見たら善人だと思う。」の方だと思う。


 


  パリで、頑張って、けなげに生きている人は、すごい、偉いなと,憧れもしていたけれど、片意地はらずに生きていける日本の居心地の良さがわかるようになった。
 物価が上がる、暮らしにくくなる、という声が聞こえてくるが、パリに来てごらんなさい。農業国でありながら、野菜まですごい値上がり。トマトを買うのを躊躇してしまう。10ユーロで野菜がわずかしか買えないのだから。クロワッサンは80セント、日本円で140円もする。庶民のバケットが、なんと200円以上です。昼食に2000円かかるというのはどうか。飲み物をつけると3千円、ごく一般的な店で。
日本は外食天国と言えそう。ガソリンも何もかも、日本はまだ、随分安いということがここに来れば実感できる。  

Posted by アッチャン at 20:32Comments(0)