2008年04月30日

暁斉、京都国立博物館にて

  

  
  久しぶりの京都は、一足飛びに夏が来たような明るさと熱さだった。人通りを避けて、高瀬川沿いを歩いて、美味しそうな 店がないかとうろつくと、昔ながらの風情を漂わせた豆腐屋さんがある。このあたりで美味しい店はありませんか?厚かましくも地元の人に聞くのが、私のいつものやりかただ。
 「何がよろしいですの。」「なんでもいいけど、和食がいいかな。」
この道を左に行って、橋を渡らずに、細い道をくねくねしてますけど、川に沿うように行くとお野菜が前に置いてある店があります。ネギ料理の店で、そこが美味しいですよ。」
 

 


確かに、野菜が置いてあるのですぐにわかった。「葱や兵吉」という暖簾がかかっている。
 中に入ると、川沿いにカウンター席があり、そこは一杯の人だった。
「靴を脱いで二階に上がってください。」と言われ実家にあったような急な階段をあがると、小さなテーブル席がいくつもあって、ほとんど埋まっていた。隣の人のテーブルに、升に山のように刻み葱が置いてある。忙しく働く人達が、テーブルでサービスしている様子を見ながら、キョロキョロどんなものを注文しているのかと見る。すり鉢一杯のトロロを大きなお椀に何度もかけている。すごいトロロの料だな。
ここでも、サーブしてくれる人に「何が良く出ますか。」と聞く。
隣の人が食べている。トロロご飯の様だ。


 

 友人はそれを頼み、私は、兵吉御前を注文した。葱3種の料理に、豚の角煮がつく。
トロロ飯は、白ご飯か、玄米かの2種類を選ぶ。兵吉のほうは、菜の花ご飯との3種類。 葱料理は、ぬた、九条葱のサラダ、それに焼タマネギの3種類だった。これで2千円というのは、少し値段が高いようにも思うけれど、京都に安いものなし、旨いものなし、というから、その割りにはリーゾナブルで、京都らしくて、よろしいのではないか。
 とにかくヘルシーで、町屋の雰囲気が漂っていて、不味くないのだから、京都観光客には万々歳だろう。


 店自慢の「とろろ飯」はなかなかのものだった。トロロが玄米煮よく馴染んで、たっぷりあって、そこにかの、刻み葱をどっさり乗せていただく。付け合わせの0みそ汁は、気の抜けた味で、れんこんは辛すぎる感があり。やはり、観光客をターゲットにした店のよう。
 店を出る頃には、待っている人が多くなっていた。私達はラッキーだったのだ。河原でしばらくボーッとしてから、国立近代美術館まで歩いた。

 


NHKで「暁斉」展を紹介していて、見たいと友人が言う。私は、それは国立博物館じゃないの、と。行ってみると、やはり国立博物館の方だった。引き返して、五条坂に。
 時間が4時頃なので、待ち時間なし、と出ている。昼間なら待たねばならないほどの人気なのだ。それでも入ると結構人がいた。
空いた所を探して、順番を気にせずに観賞しているうちに、だんだん空いて来た。閉館間にかになってきたから。
「狂斉」と名乗っていたのを、逮捕されてから、「暁斉」と名乗りを変えたとか。天衣無縫に、自在に描いた絵の数々に圧倒される。時には大胆に、時には精密に、その集大成としての円熟期、後期の作品は、見事で素晴らしい。人間の等身大をくまなく、描き尽くすことで、絶頂期を100パーセントの完成度に高めていったのだろう。その生き様も、かくあったのだろうと想像する。
 深い哲学の元に、リアリティーをつきつけながらも、苦しいほどの遊び心を大切にした
画家、というよりも、私は「絵師」と呼びたいような、、、。
 仏画や人物の表情に見る、優しさ、気高さ、大らかさ。
 


 
 

  

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2008年04月23日

ジャンボ有馬で誕生会

  
 母の誕生会をかねて、プリンセス有馬に予約を入れていた。有馬にありながら、以前は水道水だったが、有馬の近くから、赤湯を引いて、温泉が入るようになったので、お料理も美味しいし、料金も安いので、申し分のないホテルになった。
 二日前になって、電話があり、ボイラーが故障したので、営業停止になっているという。妹は、仕事日を振り替えてもらっていたし、妹の娘は、有給を取っていたので、別の日に変更するわけにはいかない。メンバーの誕生月なので、特別料理が出る事になっていた。 すぐ近くに、同じ経営で「ジャンボ有馬」がある。そこへの振り替えなら出来るとのことだった。そこには、25日から赤湯が入るようになるが、今はまだ。
別の旅館を選ぼうかと思ったけれど、誕生日の特別料理をしてもらえるので、そこに決めた。温泉は、近くの「太閤の湯」に行くことに。

   

 この選択は、すこぶる正解だった。「太閤の湯」は、空いていて、気持ちが良かった。お料理の席に着くと、フリードリンクのサービスがついていた。
 
  

お料理は、食べきれないほどの贅沢なもので、その上、1品、特別料理がついていた。 母は誕生日のプレゼントに、丹波焼のお湯のみをいただき、記念写真も撮ってもらった。 、妹の家族4人の部屋は、大きな広い角部屋、私達3人は普通部屋で隣同士に用意してもらっていた。

   

 翌朝、支払いをしに行くと、間違っているのでは?と聞き返した程安い値段だった。
 「プリンセス有馬がボイラの故障で、ご迷惑をおかけしましたので、今回は全員メンバー料金にさせていただきました。」と言われた。総勢7人だった。

   

 ボイラーの故障で、特別待遇を受けることが出来た。母の誕生日の特別料理に惹かれて、温泉はないけれどそこは我慢で選んだ結果、何もかも満足の上に、満足以上の大正解だった。

    

Posted by アッチャン at 13:10Comments(0)旅のグルメ

2008年04月18日

 オペラの原風景

  バスチーユ

プッチーニの「蝶々夫人」の中に、「ある晴れた日に」という歌曲がある。蝶々夫人と言えば、日本の草分け的存在として、三浦環というソプラノ歌手がいた。昔の日本人ソプラノ歌手のイメージは、背が低く、太っていた。
 私が新婚旅行でハワイに行った折りに、昔はニューオータニと言ったと記憶するホテルで、日本人のソプラノ歌手に出会った。彼女の名は、東さん。蝶々夫人を得意とする歌い手だと聞いた。世界中を公演して回っているとか、ホテルの支配人が、紹介してくれた。 彼女は親しく話しかけて来られて、楽屋に是非遊びに来るようにと言われたが、その当時は、オペラを見に行ったこともなければ、行けるような環境にもなかった。
 それでも、蝶々夫人の「ある晴れた日に」という歌には馴染みがあり、その時の出会いは心にいつまでも消えることなく残っている。

 ロスアンジェルス

 海外に出ると、私はまず、どこかでオペラの公演がないかと探すようになった。そのきっかけは、息子と初めてニューヨークに行った時にさかのぼる。いえ、それが最初ではなかったかもしれないが、私の頭の中で、強烈な印象を持って残っているものだから、そう思うのかも知れない。
 1週間、ニューヨークに滞在した時のこと、息子はメイン州の田舎にある高校生だった。 マンハッタンのブロードウェイに近いホテルを、何軒も訪ね歩いて、比較的安いホテルに落ちついた。「ティファニーに朝食を」で憧れた五番街を初めて歩き、ティファニーも覗きに入った。一番の目的は、ブロードウェイのミュウジカルを見ることだった。「レ、ミゼラブル」はチケットが買えず、「コーラスライン」を見た。
 歩いて行ける場所に、メトロポリタン劇場があった。「蝶々夫人」と書いているので、これなら、言葉がわからなくて内容は知っている。

 ブロードウェイ

 私が買った席は、二階の最後列の安いチケットだった。隣にいる女性は、感極まって何度も涙をぬぐっていいる。私も負けずに、泣いていた。二人で手を取り合って、素晴らしいわと繰り返す。ソプラノ歌手は日本人ではなく、アジアの人だったか、イタリアの歌手だったか。その時の感激から、「蝶々夫人」は、何度か、どこかで見ているので、印象がごっちゃになってしまっている。
「ある晴れた日に」という歌は、母から覚えたものだ。
  中庭にある桐の木の傍で、日の良く当たる場所を選んで、母は、オペラのアリアを歌いながら、洗濯板に洗濯物を押しつけて、ゴシゴシ洗っていた。父の油にまみれた仕事着の汚れを取るために。私が傍に行くと、手を止めて、得意げな顔を私にむけて、ますます朗々と歌い上げる。晴れた日に、洗濯しながら、プッチーニの「ある晴れた日に」を歌う母の面影は、私の切なさをかきたてる。
お茶目だったという母のお茶目ぶりを語るエピソードなら、泉の如くだが、ベートーベンを「ベントウベン」シュウマンは「シュウマイ」と教えてもらった。母が一番好きだというシューベルトの、呼び名はシューベルトしか知らない。

 私のオペラ好きは、おそらくその頃の、母の歌う、歌曲から来ているのだと思う。  

Posted by アッチャン at 03:04Comments(0)日々の事

2008年04月12日

松竹座、花形歌舞伎

 

 

4月の花形歌舞伎は、1枚しか券がなかった。その券は、いつもの二階席と違い、一階の前から3番目の良い席だった。上方の中堅から若手中心の舞台で、3部に別れている。チケット代金は、一番席が8千円なので、歌舞伎としては安く設定されている。人気がないので、招待席にも、前から3番目という席が設けられたのだろう。
 当日になって、松竹座に電話をすると、一番安い席もまだ空いているという。当日券が買えなければ、母を待って、映画館にでも入っていようと思っていたが、母は一席しかないのを憶えていて、行くかどうか思案していた。当日券があると電話で伝えると、母は躊躇なく行くことを決めた。早めに夙川で待ち合わせて、難波についてから、昼食を取った。「くいだおれ」がなくなるので、くいだおれに入ってみようか、と思ったが、母がそれほどお腹が空いていないというので、「くいだおれ」というわけにも行かない。

 「はり重」の小振りの牛丼なら食べられそうだというので、「はり重」のカレーショップの方に入った。レストランの方はいつも閑散としているのに、こちらはいつも、並ぶほどの混みよう。待っていても、済めばすぐに出て行かれるので回転が速い。時間のある時にはレストランに行く。階上の厨房から来る、幕の内などは20分くらいかかるし、牛鍋も時間がかかる。早いのはランチぐらいで、これは、カレーショップと同じ厨房からのもの。スープとコーヒーがついている。ゆっくりと食事を楽しむには、レストランがお勧め。

 

 さて、カレーショップにはいると、母は、牛丼ではなく、ビーフカツカレーを注文した。私は以前に、それと同じ物を食べながら、「隣の人が食べているえびふらいカレーが美味しそうだ。」「ビフカツランチが美味しそうだ。」とキョロキョロ目を走らせていた。ビフカツカレーはやめて、ビフカツランチに決めた。
 注文品が来ると、目の前にある母のビフカツカレーが、いかにも美味しそうに見える。 けれども、家でカレーの仕込み中なのだ。妹が「ミンチでカレーを作ると、美味しい。」と言ったのがひっかかっていて、ハンバーグにするつもりで買ったミンチ肉で、前夜からカレーを煮込み始めていた。これから、毎日カレー日が続くことになる。と言う理由もあって、カレーは食べないことにしたのだ。
 母は、美味しい、美味しいと言いながら、お腹が空いていないはずなのに、ご飯は残したものの、結構しっかり食べている。ここのビフカツカレーは、ボリウム満点なのに。

 

 私は自分のビフカツ定食ですでにお腹が大きいのに、母が食べられないという、最後の一切れに手を出し、カレーもちょっぴり食べて見る。美味しかった。戸口に人が待っている。食べ終わると、すぐに席を立つ。まだ時間があるので、いつものように、水掛不動尊にお参りに行くと、隣の店先に置いている「夫婦善哉」の値段が二倍になっていた。二倍とは、すごい値上がりだ。水掛不動尊へのお参りの人が随分多くなっているので、観光客ならいくらでも買っていく。特にアジアからのお客さん達が増えているので、二倍であろうが、3倍であろうが、関係ないというのだろう。

 

 私が購入した、3階の席から、母の様子がよく分かった。休みになって、席を離れて私を捜しに来るかもしれないと心配したが、席に座ったまま、私を捜しているよう。幕間が10分なので、席を立つ人がなく、そのまま座っていた。
 15分の休憩になると、あわてて一階席に行く。母は「ここは良く見えるから変わってあげよう。どこにいるの。」というので、「私の席も良い席だから大丈夫。芝居が終わったら、ここに座ったまま待っててね。迎えに来るから。」ともう一度念を押して、三階席に。
3階の一番前の席なので、充分良く見えた。パリなどの大劇場と違い、松竹座の3階席からは、顔の表情まで見える。安価で、歌舞伎を堪能するのには、持ってこいの席だ。
 3階の壁に、歴代の歌舞伎役者の肖像写真が並んでいる。これを見るのも初めてだった。今度、母に見せてあげたいと思いながら、一人一人、歌舞伎を継承してきた、名役者の写真を見る。嵐徳三郎さんの写真が端にあった。蜷川芝居の「王女メディア」での演技が蘇る。

 

 私達が見たのは、2時45分からの出し物で、最初が踊りで「業平吾妻鏡」あいかわらず、進の助さんの踊りが不味い。相方の薪車さんは良く踊る。舞踊は、ごまかしが効かない。
 二幕目は、「双蝶々曲輪日記」で3場からなっている。情緒たっぷりの世話物で、上方特有のもの。坂田籐十朗を復活襲名した、お父さんと扇千景の息子達は、二人とも、上方を背負って立つ役者で、実力も充分。特に、翫弱さんは、若い頃から踊りも演技も秀でていて、お父さんとどちらがどちらかわからないほどよく似ている。歌舞伎は、肉体芸の継承を求められるので、基本は押さえながらも、その人にしか出来ない独自性も要求される。超えていかなければ、歌舞伎のおもしろさは持続出来ないし、それぞれのお家芸は、きっちりと継承していかなければならない。関東では、海老蔵や、染五郎、亀次郎など、実力も人気も抜群の役者が多いので、上方は地味で盛り上がりにも欠ける。中村亀鶴という若い役者が、今回の舞台で、主役の濡れ髪というお相撲さんの役を演じて、これがなかなか良かった。これから注目して行きたい役者さんだ。
  

Posted by アッチャン at 10:50Comments(0)art

2008年04月07日

富岡鉄斉と吉田画伯

 


  ギメ美術館に、富岡鉄斉の掛け軸が4,5枚展示されていた。墨絵も大胆で素晴らしいが、字に魅せられた。日本に帰って、インターネットで鉄斉の作品が見られる所は?と調べたら、灯台元暮らし、近くに鉄斉美術館があるという。戦後、歌劇しかなかった宝塚に宗教と芸術文化の花を咲かせたいという理想を持っていた、清澄寺の第三十七世法主光浄和上(1895-1969)は、富岡鉄斉が87才の時に初めて出会い、宗教と美術を一つに結ぶ鉄斉の平和精神を世界に広める事を発願し、鉄斎芸術振興に尽くした。遺志は、三十八世光総和上に引き継がれ、ボストン美術館やギメ美術館、東京国立博物館、近大国立などに、作品が寄贈されることに。
 ギメで見たのは、その寄贈作品ということになる。鉄斉は文人画家で、神社の宮司も勤めていた。宗教と芸術の融合と平和への願い、と聞くと、パリの吉田画伯に共通性を感じる。鉄斉の絵は、墨絵で水墨画だが、吉田さんも、日本に居るときには、色彩の美しさに定評があったけれど、パリに来てからは、。長らく黒の世界に集中された。黒白の世界を通して、現在は金と銀の輝きを入れられるようになった。金は、宗教の場でも、宗教画の中にも、神仏にも使われている。下絵に赤を塗り、その上から黒を何度も塗られる
隠れて色は何層にも深く、その上に直に金を貼り付けて行く。初めから金ではなく、究極に金があり、その金色は、時間を経て、更に変化して行くことを見越しての塗だと言われる。
 宗教的芸術を通して、祈りと平和を祈願するという、共通の認識を、吉田画伯と、富岡鉄斉に見るように思われる。鉄斉の写真を見ると、ますます共通点があるような、そんな不思議さを感じる。
 最も、ワインを飲み続けて来られた吉田さんは、いささか西洋的ではあるが。

   

Posted by アッチャン at 21:44Comments(0)art