2009年03月23日

 ETC車載、土日千円にだまされてはいけない


 

何故ETC車載でなければならないのか
月末から、高速道路料金が土日に限りどこまで行っても、自家用車は1000円になる。ただし、ETC車載に限る、というので、ETCが売れに売れ、品切れ状態が続いている。高速道路には乗れない私まで、ETCをつけなければ、とあせってしまった。だが待てよ、踊らされてはいけない。
この週末、一部の高速道路が、この割引を始めたら、たちまち高速道路に車が殺到して、混雑ぶりを露呈した。
 そもそも民主党は、高速道路の無料化を訴えていたはずだ。それに対抗して、自民党が打ち出した、方針が、ETC車載を条件に、しかも土日だけ千円にするという対抗案だ。これを有難がっていてはいけない。
 無料になれば、維持費がかからなくなる。自家用であろうと、業務用であろうと、全て無料になれば、一番必要としている、業務用の経費節減になり、その結果、消費者である私達に、その恩恵は回って来る。いつでも、というと、土日に殺到して混雑することも免れる。
 信号のない高速道路は、交通事故や渋滞を回避し、時間の短縮になるので、安全性を増し、労働力を増加させる。経済に及ぼす効果は大である。
 一方、ETCを車載していても、機械の故障に備えなければならないし、人員の削減は出来ないし、土日の渋滞で、トラックやバスなどは迷惑を被るだけ、負担が増えるだけである。このような愚策に、国民はどうして小躍りして喜ぶのだろうか。すんでの所で、私も踊らされる所だった。
 我々が、要求すべきは、高速道路の全線無料化、無駄なETCを買うべきではない。目的が達成されるまで、高速道路使用拒否運動をすべきなのだ。
 
  

Posted by アッチャン at 22:23Comments(0)日々の事

2009年03月23日

一瞬の永遠

 

 先日、京都に母を連れて行ったことへの礼と、母はそのことを何も覚えていないこと、なんとも精がなくて悲しい限りだ、という文面のメールが入っていた。
 私は、母の為に、京都に行ったのではない。母を喜ばせたい、散歩して足腰の運動をしてほしい、少しでも元気になってほしい、という私の言わば、自己満足の為に、母を京都に誘ったのだ。だから、感謝しているのは私の方だ。元気な母と、こうして楽しい時間を持てることの喜びは大きい。京都で歩き回り、寝る時に、私は、合わない靴のせいか、足が痛くて寝られないのに、母と言えば、コテンキューなのである。寝酒に、チュウハイの缶を二人で分けて飲む。甘いもの好きの母には口当たりが良いらしい。美味しいわね、と言いながら、私の量が少なくなることを心配する。私が酒飲みだから。「ホテルの廊下に行けばいくらでも買えるから。」と私は言う。廊下の氷を取りに行くというと、母は心配してついてきてくれる。部屋の向いにあるというのに、なにか起これば大変だから、と。

 


 錦市場で、母はバッグを買った。最初は、私に買ってあげるのだと言って、物色してるうちに、最後には自分用に買う事になる。安いから、一度食事をするぐらいだから、というのが、最近の母のくちぐせになっている。昔は良く、勧められては衝動買いして、「しまった。こんなものを買ってしまった。」と母が愚痴る。父は笑って、[お前は、自分で買ってきて、こんなに良い買い物をしてきたと言ったことがない。]と言っていた。
頼りにしていた父が亡くなってからは、母は安いものしかほしがらなくなった。母は中でもバッグが大好きなのだ。友人にもバッグが好きという女性は多い。女性とバッグは切り離せないものらしい。ブランド品から、エコバッグに至るまで、おしゃれと実用両面で、関心が深い。
 とにかく、母はバッグを、あれやこれや、と探している時には、喜々として幸せ、元気なのである。そういう姿を、私は見ていたい。



 母は言う、「こうして歩けるから、なんとか来られるから、有難いわ。」そこが京都であるのか、どこであるのか、忘れていても、把握出来なくても、そんなことは重要なことではない。一瞬という永遠の時間を、生きているという実感が大切なのだ。美味しいわね、と思える瞬間、周りの景色に足を止め感動できる瞬間、車窓から、ホテルの窓越しに、朝のレストランから、それらの瞬間の一つ、一つは、私にとっても、母にとっても、共に生きる永遠の時間なのである。この体験とそっくり同じものは、つかめない。だからこの一瞬は、かけがえのないものなのである。
  

Posted by アッチャン at 17:50Comments(0)