2009年06月20日

洗髪


 

「母の熱が7度4分くらいになり、落ち着いているし、洗髪させてもらっての良いですか?」
その日の看護婦さんは、優しくて、感じの良い人だった。 先日も、確か私が帰っている間に洗ってもらっていて、バスタオルを持ち帰った。
実習するのは、研修生で、一緒に補佐しながら教える。
 「また、今度でいいですから。今日は良いです。」
母は、必ず断る。お身体拭かせていただきますが。足湯をさせていただきますが。まだ、シャワーまでは、許可が出ていない。
悉く、母の意向は、「いえ、今日でなくても。」という。
「ベッドで洗いますので、」と言われる。そんなこと出来るの?へー。
シーツを頭の下に引き、ゴムボートのような円形の形をしたものに、頭を入れる。お湯を注ぎ入れる。横は余分な水が流れるようになっていて、バケツで流れた水を受ける。
シャンプーで二度洗いして、ポットに入れたお湯を看護婦さんが、流し、実習生は、髪を洗い、マッサージして、濯ぐ役。汗が顔を伝っているのを見て、母は
「大変ですね。汗が出てますよ。すみません。」
気持ちがよいらしく、うっとりした顔をしている。
こんな風にして、髪が洗えるのだ、と感心する。
 寝たまま、入浴が出きる、循環サービスがあると聞いたことがある。
家での介護に、私の知らない、様々な方法でのサービスがあるのだろう。隣の患者は、ひどい床ずれで入院しているとか。
デイサービスとショートステイを受けていて、なんで床ずれ何や?と不思議に思うけど。
寝たきりで、ケアーしてなかったのではないの?


  

Posted by アッチャン at 12:33Comments(0)日々の事

2009年06月20日

狂言とオペラ「オテロ」

 吉在門の会員メニュー


試みの斬新さに惹かれて、友人にチケットをお願いした。「オテロ」シュークスピア4大悲劇の一つで、ヴェルディーのオペラ「オテロ」は
傑作だ。それと、日本の、能楽の軽業的、庶民的笑いを持つ狂言とが、そう絡み合っていくのだろうか?
 題目の選択に失敗したのかもしれない。場所の置き換えもまずい。デザイナーも衣装に頭を痛めた結果、狂言のシンプルな衣と違和感だけを際立たせる結果となった。
 前回の「リア王」は良かった、という友人の感想は、題目の選択によるものだろう。黒沢明なら、「オテロ」の背景を変えて、映画化しようなんて考えないだろう。シュークスピアだから、というのでは読みが浅い。
 ヴェルディーは、「オテロ」ならばこそ、7年かけて、オペラの名作に仕立て上げられたのだ。恋の三角関係、恋の終わりは悲劇、単純なストーリー、これからオペラに不可欠な要素で、「オテロ」は心の秘めたる思いを歌にするのに、ピッタリ。旋律の美しさで、観客の感覚を揺さぶる。

 あわびと作りのコラボレーション

 大阪の能楽堂で、上演された、昨夜の「オテロ」は、背後に松を描いたヒノキの舞台、照明は全く使わず、終始明るく、明瞭な世界で、猿楽の歌舞伎化としても随分無理がある。
私が、あえて、演出させてもらえるとしたら、ソプラノ歌手のデズデーモナには、終始白のシンプルなドレス、オテロは、黒のやはりシンプルな布をはおっただけのようなもの。他の二人の歌手にも、黄色とピンクで同じ形のものを。色と軽やかな自然の肉体の動きを頼りにして、一種幻覚的な存在とする。狂言師達は、狂言衣裳のままで。これも色で分ける。せりふは、歌舞伎役者ぶらないで、お能の歌いを歌うように、しゃべらせる。イヤーゴだけは猿楽としての演技、語り口もそのスタイルで。そうすることで、立て役者であることを際立たせる。オペラとのコラボレーションであるから。ソプラノに歌わせながら、狂言役者には、追いかけるようなセリフのオペラ化。オペラ歌手達には、能楽のお面をつけさせる。せりふの音量はもっとおとして、幽玄の世界として作ると、足の運び、しなやかさと動きの機敏さ(これから猿楽としての特徴)がもっと際立つ。昨夜の舞台では、トランペットと太鼓のコラボレーションで、登場人物が出てくる以前はいいけれど、出演者の声高なセリフまわし、ソプラノの声とあっていない。
 イヤーゴを演じた人は、終始猿楽スタイルを貫いて、姿かたちを決め、動きの素早さ、板を滑るなめらかさ、声使いといい、猿楽として違和感なく、際立ってよく見えた。つまりは舞台に、あっていたからだ。
 演出するとしたら、いくつかの可能性はあるものの、「オテロ」という選択はまずかった。
  

Posted by アッチャン at 11:57Comments(0)演劇

2009年06月20日

看護婦をまねて

 

 看護婦さんを真似て、母の体を起こしたりしていたら、首が痛くなった。腰もおかしい。中腰での動作ばかりなので、看護婦さん達は、皆、腰がやられると言われる。不思議なもので、白衣を着ると、痛みを忘れるそうだ。腰にいつもコルセットを巻いて、作業するのだという。
今までは、母を起こそうとしても、ものすごく重たくて、どうにも動かさなかった。看護婦さんが、母に「力を抜いてください。でないと重いですから。」と言われるのを聞いて、それ以来母に力を抜いて、と頼むと、うまく動かせるようになった。その結果、私の腰と首が、おかしくなっている。母は頑なに、私の体を心配して、「だめ、だめ、自分でするから。」と拒んでいたが、言われたようにするようになっている。
「すごい力やね。」とか「ごついね、あんたの手、叩かれている。」とか文句半分、冗談半分。
昨日は、点滴の間に、トイレをもよおして、向いのトイレまで行きたがったが、足が立たない。もう我慢できなかったのだろう、ベッド脇の簡易トイレに必死のおもいで、座った。大便だった。オナラの連発。一昨日から、下痢で何回もトイレに行っていた。抗生物質のせいだろう。
 意志とは反対に、体がどうにもならない時が来る。神様は良く考えられたものだ。
 羞恥心と、プライドで、阻止していた、ガードが、自然に開く時が来る。委ねられていると感じると、なんだか嬉しくなる。母が小さくなったように感じた。

、看護婦は、仕事はきついが、やりがいのある仕事だ。母を担当している実習生は、とても可愛い人で、母はすっかり彼女が好きになった。こういう女の子がいるのが不思議なくらいだ。看護婦さんを職業に選びたいと思う子は、違うのかな。彼女なら、ナイチンゲールになるだろう。
 看護婦さんの中で、とても親切で、優しい人が多いが、中には、仕事があらっぽく、にこりともしないで、意地の悪そうな人もいる。そういう人は、プライベートな不満を、患者に転化させているのかもしれない。それとも人間性の違いなのか。
患者の立場は弱い。老人ともなれば、なおさらだ。
 人のお世話をする仕事は、明るくて、親切で、タフで、使命感に支えられていなければ、スペシャリストになれない。志を持っていても、希望と現実との狭間で、日を浴びることなく、その人の善意に頼られ、挫折する人も多い。看護婦や介護士は、貴重な宝、コンディションの良い状態で働けるように、大切にしてほしい。
  

Posted by アッチャン at 09:58Comments(0)日々の事