2009年07月10日

想像力があれば

 

リウマチの治療薬プリゾニゾンの投薬で、確実に母の炎症反応は下がって来ている。今週の火曜日の血液検査では、3,9になった。貧血も、赤血球も正常値にさらに近づいた。食欲旺盛で、出される食事はほとんど全部食べるようになった。食事に生ものは出ないので、お造りを買ってくる。昨日はスイカを買って来て、ほとんど母一人で食べてもらった。野菜ジュースにケーキや和菓子を入れておくと、夜の間に食べているのか、結構なくなっている。今日、生協にお造りとジュースなど買って来たら、5階の売店で買った、どらやきとロールケーキを食べ、野菜ジュースを飲んだところだった。6時にご飯が来るのに、食べられないのではないかと心配したけれど、お造りとご飯は全て食べた。
毎日体重を計っているが、食べている割にはあまり変化がない。朝のミルクも必ず飲んでいる。
 母は、そこが病院であることを、認識しなくなって、家だと思っている。狭いながらも居心地が良いらしい。気兼ねがなくて、どの人も親切、笑顔で接してくれる。母の手を引いて、何度も廊下を散歩すると、出会う人達と自然と話をするようになる。海の見える、休憩所にいつも座っている夫婦がいる。母を見て、「この方は良く、もてたでしょうね。可愛らしいから。」
 病院のスタッフも、母を嫌いになるわけにはいかない。いつもニコニコ楽しい笑顔、謙虚で、感謝、感謝の言葉だから。こまることは、最近になって、思ったことをアカラサマニ口にすること。
 昼食を、広くて気持ちが良いから、と談話室で取るときがある。一人で食べている患者さんを見ると、母は可哀そうで、涙を浮かべる。
「一人ぽっちなんだわ。かわいそうに。」耳が遠いので、小声ではない。母の声を抑えるわけにはいかない。
酸素マスクをした状態で、車椅子で運ばれてくる老人を見ると、母はまた、かわいそうにね、と涙する。母自身が、「ひとりぽっちの寂しさ」を知っているから、そういう言葉が出て、感極まるのだろう。
言われている人は、自分の寂しさに太鼓判を押されたようで、よけいに辛いのではないだろうか。
「いいですね。娘さんですか?うちは息子しかいなくて。嫁さんも働いているので、来てくれません。ここには連れて来てもらわないと来られませんしね。」
 「私も息子が一人、遠くにいますから。病気の時には、よけいに心細いですものね。」と自分自身の事も思って言った。
私も3週間ほど入院したことがある。母が来てくれないかな、と思ったものだ。2日間、付き添ってくれたことを感謝している。点滴の間に、トイレに行きたくなる。ベッドでしびんをあててもらった経験がある。あれは本当に助かった。
1週間もすれば、抜糸して動きやすくなる。毎日退屈で、母は来てくれないかな、と期待して待っている。母は最初のうちは来てくれたけれど、あとは忙しいのと、安心とであまり来ない。若かったから、それほどではなかったけれど、老いて、弱りきった上に、先の希望のないお年寄りの寂しさを想像すると、ひしひしと孤独感が伝わってくる。
 躊躇しないで、声をかけてあげた方が良い。そっと話しかけてあげると良い。笑顔で接するだけでも良い。
要は、想像力があるか、ないかの問題のような気もする。その人の寂しさ、痛みに、想像力が働けば、その人の気持ちに寄り添うことができるのだけれど。寂しいお年寄りが、多い。
  

Posted by アッチャン at 00:46Comments(0)日々の事