2009年07月31日

異次元に

 

 ビアパーティー

 ストレス解消に、なるかなと久しぶりに友人のビアーパーティーに参加させてもらった。
お料理が一杯出て、準備するのに大変だっただろう。バイタリティー満点のホステスさんは、次から次にお料理を出して、レストランで座っている客へのサービスで翻弄している。参加者は多く、テーブルを囲んで、様々、別の会話が雑音で聞こえてくる。
 みな、それぞれ現実の問題をかかえながら、ここでストレスを発散しているのかもしれない。

私は楽しめない。おいしいお料理もわからない。病院に閉じ込められている人々を見て、老老介護の現実をまのあたりに見ている。
 先日、相談員とケアーマネージャー、看護婦、そして私達家族とのコンフェランスで、母の退院後の生活をオーガナイズした。弟夫婦は、母にグループホームを希望している。私は在宅で、なんとか母を見られないものかと毎日眠れない日が続いている。退院はそう遠くない。先日から時間があれば、妹と弟のお嫁さんと3人で、グループホームの見学をしている。施設で、仲良く暮らしている老人達、ケアーの行き届いた施設を見て、良さそうだなあ、と帰って来るが、翌日には気が変っている。眠れない夜を過ごし、睡眠は浅い。

 映画を見ても、演劇を見ても、入っていくことができないからだろう、楽しめない。切り替えが下手な私、問題をかかえたら、解決付くまでだめ。

 今一番慰めになっているのは、友人と食事しながら、話を聞いてもらうこと。せっかくの食事もまずくなるのに、悪いと思っているのに。
 病院で借りる、本は、長門寛之の「待ってくれ、洋子」田原総一郎の「僕たちの愛」そして一番拠り所となっているのは、遠藤周作の本。

 パーティーから帰ると、シングル介護の実態を放映していた。両親に愛されて、結婚したいと思わずに、ずっと家で暮らして来た女性。母親の認知症が進んで、どこに行くにも連れ歩き、悪態をつかれるようになった。あんなに優しかった母が。彼女は施設を考えたけれど、やめたのは母の言葉。
「こんなところに私を入れるの?」 彼女は涙を流す。
 
 彼女は「お父さんとあんなに仲良かったのだから、早く迎えに来てあげて。」と亡き父親に願っているという。

 私はそういう風に思わなくてよいのを感謝している。出来るだけ長生きしてほしい。元気で長生きしてほしい、と思えるのは、まだ厳しい現実に直面していないからかもしれない。

   

Posted by アッチャン at 00:43Comments(0)日々の事

2009年07月31日

冷房は大敵


  

 夕方、冷房がガンガン効いている、病院の談話室で、長時間話し込んでいたためか、翌朝から頸椎に来て、首が痛い。変に動かすと、ヘルニアが出るので、首を出来るだけ動かさないように注意している。
湿布を貼って、その上にスカーフをまいて寝ると、少しましなよう。車がバウンドすると、みゅっと痛む。
 
 以前に、ヘルニアが起こった時には、診察時間が待っていられないくらいだった。MRIの結果、頸椎ヘルニアだという診断だったが、治療は痛み止めと安静で、2週間くらいでおさまった。2か月ほどしてから、リハビリが入って、首の牽引とホットパップをしてもらうのに、1年くらい病院に通った。
 それ以来、人と話をして首を振ると、気分が悪くなるので、出来るだけうなずかないようにしたり、横に顔を向けると、首がおかしくなるので、正面に座って話すようにしたり、気を配るようになった。映画は、後部席から、見下ろすように見る。見上げると、首に響いて痛くなるから。

 首が痛くなって、医者に通い始めたのは、逆瀬台に引っ越して3年ほどたった頃だった。整形外科の医者は、「10年くらいしたら、手術しないといけなくなるでしょう。」と言った。あれから、何度か、痛みが出ると、医者を変えて、首つりに通っていた。
 8年くらい前に、第一病院の脳神経科の医者に診てもらったら、それほど心配しないでよいと言われた。すると、爆弾をかかえているように思っていた首が軽くなり、あまり気にしなくなっていた。

 ところが、肩関節が動かせなくなり、近くの医院に1年くらい通っていたが、あまりの痛さに、市民病院に。肩を使い込んだピッチャーが良くなる症状だと言われた。湿布と痛み止めだけをもらいに通院していたが、次第に首に来て、だんだんひどくなり、歩くと響くようになり、病院に駆け込んだ。一歩足を出すのも冷や汗が出るほど痛む。頸椎ヘルニアで、頸椎の幾つかの骨の間が極端に狭くなって、圧迫している。それ以来、気をつけていたのだが。

 冷房とストレスが大いに関係しているようだ。精神的な疲れと思いめぐらす日々、眠れない夜が続いている。

 連日のアルコールは良くないとわかっていても、毎晩飲んでいる。だらだらと、頭の中は、同じ悩みが堂々めぐり。  

Posted by アッチャン at 00:34Comments(0)日々の事

2009年07月27日

世間は病む 我は病む


 

 
 心が萎えると、体も萎える。元気出していきまっしょ、とは言っているが、体中悲鳴を上げている。病院には、癌患者で一杯だ。どうしてこんなに癌を病んでいる人が多いのだろうか。

今から手術するという患者さんは、体力をつけるために、廊下を行き来して歩いている。話をすると、萎えるばかり。
 昨日、エレベーターで出会った人が、母のいる北病棟は、別名、癌病棟、癌の患者さんは、北病棟に。以前はそうだったと言われた。今はどうかわからないが、ベッドで運ばれている患者さんは、相当のお年寄りで、死の床に沈んでいるような人ばかり。
 近隣の病室から、悪臭が漂う。ガーゼ交換なのか、膿の匂いがする。

 そんな環境の中で、元気になれるわけはない。周りが病んでいるのだから、私の心も病み、身体が病む。

 癌の要因の一つにストレスから、と言われるようになっている。世間は、様々な面で病んでいる。

 病院に、癌患者が充満している。やりきれない辛さ、周りが病むと、私も病む。

五木寛之の「養生の技術」という本に、作独自の健康法が書かれている。50年間病院の世話にならずに暮らしている秘訣の一つとして、病院には、出来るだ行かないように、病院は、病気の巣だから、と書いて言る。

 毎日、病院で長時間いるのが心配になってきた。 母には早く退院してもらわなくちゃ。ストレスと冷房で、体中おかしくなっている。関節が痛いよお。

   

Posted by アッチャン at 00:40Comments(0)日々の事

2009年07月21日

飢餓

 

手術後の身体を押して、点滴棒を押しながら、面会所にやってきた婦人がいる。同室に入ってきた若い患者さんが、おかきやお菓子を、ぼりぼり噛んで食べている。まだ食べることを許されていないので、その匂いに我慢できなくて出てきたと言われる。
 手術後の身体で、それだけ食べたいという欲求があるのなら、健康な人間が空腹をかかえているときに、町に溢れている食料品や、レストランのウィンドーに飾られているメニューを見て、到底我慢の出来るものではないだろう。
 空腹で我慢できなくなると、店先に並べられた果物に、自然と手が出てしまっても、当たり前のことだろう。それを罪とは言えるだろうか?
ニューヨークで個展をしていた画家が云った。「食べられなかった経験をしていますから。」従妹が持って行った食料品の多さは、その言葉で納得が出来た。従妹も、その人も、空腹をかかえて、極限状態を体験しているのだ。
そういえば思い出す。従妹がまだ、パリのエコール、ド、ボザールに通っていた頃、美味しそうなレストランを見ながら、学校の食堂まで歩いて行った話を。それも毎日食べられたわけではない。空腹ほど辛いものはない、と言っていた。
 吉田さんも、そういう経験は、何度もしておられたのだろう。頼って来る人に、空腹を癒してあげることを大切にしておられた。吉田さんのアトリエにやってくる人達は、食べ物を求めてやってきていたのだろう。その一人の方は、ゴミ箱をあさった経験もあるとか。
母の妹、私の叔母は、地方巡業の歌手をしていた。淡谷のり子の前座歌手だった。紫富士子という芸名で、今は大女優の森光子とも一緒になったと聞いている。ずいぶんおもしろい経験をした、と。その中で、彼女は何日も空腹をかかえて、旅をした。飢餓ほどおそろしいものはない、と言っていた。
 叔母の家は、いつも食べ物で溢れていた。果物やお菓子がテーブルに盛り上げてあった。誰が来ても、いつでも食べられるように、と叔母は言っていた。その意味が当時はわからなかったけれど、飢餓への恐怖心が抜けなったからだろう。
 弟の家族がパリに来るので、従妹に頼んでホテルを取ってもらったことがある。従妹は、彼らに食べてもらうのだと、お寿司と一緒に、おうどんの用意をしてホテルにやってきた。私は彼女に、「そんなにまでしなくても。」と言ったら、「私がしたいのだから。」と。
 彼女は、客を呼んで、食べてもらうことが好きだ。毎日かかさず、戸外に来るハトに餌をやり、野良猫や犬に餌を与える。ニューヨークで会った画家は、パリに来る時に、どっさり食料の土産を持って来てくれるという。彼女は、その人の滞在中、日本食を持参しているらしい。「やさしい人です。」と従妹を褒めていた。
 ピアニストのフジコ、へミングさんも、空腹で死にそうだった時に、道にオレンジがころがってきた話をしておられた。神様のプレゼントだった、と。貧しい暮らしの中で、野良猫を何匹も飼って、食べさせる。そういう善意が、今の彼女のピアニストとしての生活を与えてくれたのだと話されていた。
 飢餓を体験した人たちに共通するのは、「食べさせてあげたい。お腹を満たしてあげたい。」という強い欲求だろう。そのおもいやりと,優しさ、は、飢餓の恐怖、ひもじさの体験から生まれるものかもしれない。
  

Posted by アッチャン at 01:22Comments(0)日々の事

2009年07月19日

祇園鱧料理「富久」


 

 京都に誘ってもらった。祇園祭なのに、混んでるよ、と思って、十三で降りずに、梅田に行くと電車はがらがらだった。昨日までだった。相変わらず、人はすごい。
 鰻の「梅の井」は、4組の客が待っていて、あきらめた。鰻がどうしても食べたいという雰囲気ではなかったけれど、土用のうなぎ、ということで。
「梅の井」は、土用の日は、うなぎ供養で休日にしている。京都に食べに来て、休んでいるのでがっかりしたことがあるので、それはちゃんと覚えている。
 どこか美味しいところないかな、と探してたら、鱧料理の店があった。友人は、本当は鱧が食べたかったらしい。「鱧祭り」というのも京都の夏の風物詩。
 そこは夜がメインの店で、予約制すれば、お昼に、格安のコースを提供している。
 店の中に入ると、店主らしい人がカウンターで新聞を読んでいる。若い男の人がカウンターに座って休んでいる。予約は前日までですか?今からではだめでしょうか、と聞くと、今日は予約がないので、とのこと。
 鯛の造りを鱧にすれば、調理出来ると言われた。料金が変わりますが、と。
昼のコースは5250円だった。 幾らになります? 6300円です。お願いします。
 二階の座敷に案内された。若い男の人が、まだクーラーをつけたばかりなので、と言われたけど、すぐに部屋は涼しくなった。落ち着いたお部屋、床の間に鮎を描いた掛け軸。夏の花を生けてある。


 ラッキーだ。この店は、夏は鱧、冬はふぐ料理の専門店で、昭和一〇年操業の三代続いたお店。祇園の「富久」春夏は鱧、秋冬はふぐ料理の専門店。
 息子さんらしい人が、「人がいないので、私が配膳させていただきます。」
 今から料理しますので、時間をいただきます。別に急ぐこともないので、クーラーの聞く部屋でくつろがせてもらって、特別に料理してもらうのだから、文句のあるがずはない。最初に出てきた、鱧とえびを素麺で葛で固めた突きだしは、涼しさを誘って、味もさすが、と感激。


突き出し
お次は、鱧造りの三種盛り。生造りは、伊勢エビに似た甘さだある。皮焼き造りはたたき風で中が生、鱧ちりは、梅で頂く。一品で注文すると、それぞれの造りと三種盛り、どれも四千円と品書きに書いている。鯛の造りを鱧に変えていただいて、ありがたい。皮焼きと生は初めていただく。
鱧を捌いて調理する店だからこそ出来る料理だとか。



続いて、鱧の白子が出た。これも鱧を捌いて出せる料理だと説明してくださる。鱧の白子は上品で軽く、やわらかな味。焼き鱧とみょうがの酢の物がつぎに出た。




鱧シャブは、生でもいただける鱧なので、色がつけばいつでも頂ける。最後の雑炊は、調理場に引いて、出来上がって持って来られた。





焼き鱧と白い鱧が、加えられ、絶品の味に仕上げられている。鍋一杯の雑炊は一滴も残さずに頂いた。
「雑炊足りましたか?」ですって。足りないと言えばまた作ってもらえるのかしら。お酒の味も良し、部屋食でリッチな気分、ゆっくりした時間、京都に鱧を食べにやってきたことになった。


 最後の水もの

店主は、丁寧な人で、いつまでも見えなくなるまで見送ってくださったので、店先の写真を撮れなかった。
「休んで居られるのに、調理していただいて、ありがとうございました。」礼を言うと、「お商売が出来ました。またお越しを。」
夜はとても高級なので、来られそうにないが、日本の生き鱧を捌いて作る鱧づくしを、こんなお値段でいただける店は、他にないのではないかしら。
鱧の骨切りの見事な技、鱧が骨が、と敬遠する人は、この店の鱧料理をお試しあれ。

富久

京都市東山区祇園縄手通四条上がる
電話 075-561-0984  

Posted by アッチャン at 13:17Comments(0)旅のグルメ

2009年07月17日

 住めば都

 

病室に入ると、病院の相談員からのメッセージが貼ってあった。そこに相談員がやってきた。23日の午前中にコンフェランスがあり、ケアマネージャと私たち家族と相談員とで、母の退院後の生活のプログラム作るという。弟が参加出来ないことはすでに聞いていて、お嫁さんに一任されているので、大丈夫だと言われた。
 昨日、弟のお嫁さんから、23日のコンフェランスの話を聞いて、母に「退院も近いかもしれないわよ。」と言った。そして、もう一度、弟の家に電話をかけに行っている間に、母は冷蔵庫の中のもの、戸棚の中のものをすべて出して、テーブルの上、ベッドの上に並べている。
ここを出て行かないといけない、と整理をし始めた。
「今日じゃないのよ。まだまだなのよ。」と言った。母は昨日も、今日も、そのことが気にかかっていて、「ここは無くなるらしいね。出て行かないといけないらしいわ。」と言う。母はその病室が、自分の家だと思い、気楽で居心地が良いので、そこから追い出されると勘違いして、気がかりでしかたがない様子。
今日は夕方になって、内科の主治医が部屋に母の様子を見に来られた。
 母はこの先生が大好きで、嬉しそうに、感無量という表情で、涙目になっている。昨日から薬が半量になっているけれど、それでも、プレドニゾンは、使い方の難しい薬だそうだ。
 「お食事も,美味しいと喜んで全部食べますし、病院にいるほうが、良いらしいです。」と言うと、
 主治医は、「リハビリとか、母に良いこと、効果的な事があれば、部屋も空いているから、このまま入院していてもかまいません。まだ一月過ぎた頃でしょう?」と言ってくださる。
母はすでに46日目、先生もいちいち覚えていないのかもしれないが、
母に、「先生がまだまだずっといて下さい、と言ってらしたよ。」と言うと、母は安心したようだった。
 こんなに殺風景で、何もない場所でも、毎日、整理して置き場所が変わっている。母は母なりに工夫しながら、ベストな形に置き換えているのだろう。冷蔵庫に入れている、野菜ジュース、プリン、や果物がどんどん無くなっていく。買い足しては入れておくが、日に何本も飲むようになった。脱水の心配はなさそうだ。逆にトイレに立つ回数が増えている。
 退院しても、十分普通の生活は出来るような気もするけれど、体力が落ちていることは確かだ。体重も増えない。
身体の痛い時が、まったくないわけではない。起き上がる時に痛むのだろう。ベッド脇に置いている簡易トイレで、用を足している時もある。
いつもではないけれど、たまに。今日、なんとなく匂うので、ふたを開けたら、「わー、こんなに」と声を出してしまった。母は照れ臭そうに笑っている。プレドニゾンが半分の量になって、このまま順調に行ってくれるのか、心配する。
  

Posted by アッチャン at 01:02Comments(0)日々の事

2009年07月16日

 癌の転移と再手術


  吉田さん

「 梅雨明け宣言したそうですよ。」
屋外庭園のベンチに座っている婦人に声をかけた。冷房の入っている中から、お風呂のような暑さの外に出ると、しばらくは冷えた身体が温まる気がするが、そう長くはいられない。
母は、カラスが飛んでいるのを見て、「カラスの親子はとても仲が良いのですって。」とその婦人に話しかける。
青空にうす色の雲が流れ、飛行機雲を引きながら、遥かに遠い空を、飛行機が飛んでいるのが見えた。婦人が教えてくれたから。
「伊丹でしょうか。」と雲の引き始めの方角を確かめて、指をさす。
お元気そうなので、「もう退院ですか。」と聞くと、これから手術だといわれる。大腸のポリープが大きくなって、内視鏡では取れないから、開腹主術になる。「それは大変ですね。でも回復は早くなっていますから。」と言葉がないので、ありきたりなことを言うと、「2年前に乳がんを手術しましたから。仕方ないですね。出来るものを拒むことは出来ませんし、おまかせするしか仕方がないです。80を過ぎてね。」淡々とおっしゃる。
私は、内心、この病院で大丈夫なのかしら、と心配になる。
海の見える面会所のソファーにいつも座っていた、患者さんは、月曜が退院だと言われていた。その方も、胃がんから、別の個所に転移しながら、今回は大腸ガンの手術をされたという。「なんとか生きていますから、寿命があるのでしょうね。」まだ働き盛りの男性だった。
この病院、そんなに信用して大丈夫なのだろうか、命預けられるのかしら、と言葉では出せないけれど、心配した。けれど、癌の手術も沢山手がけているようだ。
 「奥池に住んでいますのよ。その向こうの方です。」
 芦屋では、この病院だけですか?とそれとなく聞くと、「公立はここだけでしょう。」と。
「ここは阪大系らしいですね。」と畳みける。
「そうなのです。優秀なお医者様が多くて、看護婦さんたちも、古くからお勤めで、ベテランの方もいらっしゃる。」
その婦人は、病院をすっかり信頼しきっておられる様子。勿論そうでなければ、手術をゆだねる気にはなれないだろう。
それでも、私は、ここで大丈夫なの?と。
隣の、床ずれの患者さんの娘さんは、「以前は、療養型病院だったのですよ。前の院長がとんでもない人で、やめてもらって、潰すわけにはいかないので、立て直しをして、大分改善はされているようですが。」とひそひそ声でおっしゃる。
 良いは、悪い、悪いは、良い、そういうことなのだろう。
  

Posted by アッチャン at 10:11Comments(0)日々の事

2009年07月15日

素晴らしいご夫婦



 

母の病名は、今のところ、リウマチ性多発筋痛症ではないか、と思われる。CCP検査の結果は、陰性なので、関節リウマチではないだろうと診断された。プレドニゾンを投与して、すぐに効果が表れ、症状が改善されているので、明日から、プレドニゾンを半分に減量すると云われる。
炎症反応は、2,4ぐらいまで下がっているが、正常値は0,3以下。インターネットで調べると、1年以上、薬の投与が必要で、4年くらいかかる人もいるらしいが、ある時、突然完治するらしい。
 整形の医者は、内科の先生と退院の相談をしてください、と言われた。あとは外来で治療を続けて行けばよい、と。入院してから、40日が過ぎた。母はそこが病院であることを忘れ、自分の家だとまではいかないが、部屋だと思っている。土日は弟夫婦に母の世話をお願いしているので、私は行かない。月曜日に行くと、「あら、来てくれたの。」と嬉しそうに迎えてくれる。脳梗塞で入院しているご主人の付き添いで、泊まりで看病している奥さんが、「疲れで、寝込んでいるのではないかと心配しました。」と。85歳だというのに、連日泊まり込で、わがままなご主人の暴言に耐えて、よく付き添っておわれると、私の方が、その方のお体を心配する。食事を食べたい、家に帰りたい、車椅子で散歩させろ、病院の部屋に声が響いている。点滴を2回も自分で引っこ抜いたのだとか。
 私が母の手を取って、病院の廊下を歩いているのを見て、「お母さんの表情が違いますよ。嬉しそうだこと。昨日も、その前の夕食後も、お盆を一人で配膳台まで持って来てこられていましたよ。」と言われた。おそらくつまらなそうな顔をして、食後のお盆を持って、よちよちと歩いていたのだろう。
 看護婦さんが、「お母さん、午後に、あそこに出て、一人で座っておられました。階段があぶないのではと心配しました。」4階の屋上庭園が、屋外リハビリにも使われていて、階段の上り降りの歩行練習場になっている。毎日、2,3回リハビリをかねて、歩き回るついでに、そこも一回りする。一人で退屈なので、ふらっと出て行ったのだろう。
病院の中の患者さんに、トラブルが多い。毎日、かかさず、食事時にやってきて、奥さんに食事を食べさせている人がいる。年齢差から云って、お母さんと息子さんかと思っていたら、看護婦さんとの話から、奥さんだとわかった。
母は、二人を見て、涙を流しながら、「なんて素晴らしい、けなげな息子さん。お母さんを一生けんめいに世話されて。」耳が遠いので、筒抜けだ。
そこ方に、病院からの帰りのエレベーターで一緒になった。会釈する程度だったので、初めて会話を交わした。
「毎日、朝、晩と二回来られているのですか?」と聞かれたので、以前はそうしていたけれど、最近は「11時に来て、夕方までいて1回にしています。」と答えた。骨折で入院して、治りかけたところに、今度はこけて、また骨折したという。看護婦さんの不注意なので、治療費は半分負担してくれているが、そういうトラブルはどこの病院でもよくあるらしい。ベッドから落ちて、脳を打ってそのまま亡くなった友人も、と言われた。
お姑さんを、朝から夜まで付き添っていた人も云っていた。「ベッドから落ちて、歯を折ったので、病院の負担で退院が伸びています。」と。

奥さんは90歳で、若く見えるご主人は10歳年下だそう。母が失礼な事を云って、と言い訳すると、どこでも親子と思われるらしい。
昼食と夕食を付き添いに、2回往復しておられる。10分ほどの距離だから、間に家で仕事をされている。
今日も、母と昼食を、談話室に持っていくと、来ておられた。話しかけられながら、食事を口に運び、献身的な介護をなさっている。奥さんの手をなでながら、やさしく接しておられる。
母はまた、感涙に声を震わせながら、「あんなに素晴らしい子供はいないわ。お母さんを大切にしてあげて。素晴らしい親子やね。」と大きな声で。
私も思う。素敵なご主人に、甘える可愛いらしい奥さん。親子ほどの年の開きに見える、愛情あふれる夫婦。
  

Posted by アッチャン at 02:59Comments(0)日々の事

2009年07月14日

ディア ドクター

 ディアドクターhttp://deardoctor.jp/
 映画は、観終わって、感動した、よかったで終わってしまうものと、観終わった後から、始まる映画がある。ディアドクターは、後者に属する映画だ。
 医者の資格って、何だろうか?医者の存在意義とは?医者の仕事とは?疑問を投げかける映画だ。
映画の冒頭から、にせ医者じゃないの?と感が働く。そのまんまの笑福亭鶴瓶が、医者を演じているという印象。4年間も無医村だった村にやってきて、献身的に働き、信頼されていた。ある日、突然失踪して、にせ医者であることが判明するが、彼を悪く云うものは誰もなく、追う警察の方が、告発されているような錯覚を抱くほど。彼のいなくなった診療所は、最早診療所ではなく、病気をかかえている人達は、治療をしてもらう手立ても、薬も手に入らない。
 医学は、人を助ける為にある。病気は気から、というが、心と病気は切り離せない。心をつくして、献身的に働く医者は、たとえ免許があろうとなかろうと、患者の心のケアーをし、信頼と安心を提供してくれていたのだから、高齢化が進み、社会から取り残されていく、住民にとって、彼は、資格のある医者よりも、頼りになる存在なのだ。複雑な感情は抱きつつも、親近感と感謝の気持しか残らないし、医者であれば良かったのに、もう一度、戻って来て診てもらえることが出来ればいいのに、と残念な気持ちで一杯だろう。取り残された病人達を、信頼のおける、本当の資格のある医者が来てくれる希望はない。
 私たちは、一体、どう考えて行けばよいのか?解決できる方法は,はたしてあるのだろうか?鑑賞者に、重大な問題提起を投げかけている映画だ。
 
  

Posted by アッチャン at 00:17Comments(0)映画

2009年07月13日

奥座敷の夫人


 


 芦屋病院は、芦屋市民が患者としては多い。夙川か、芦屋に住むお年寄りなのだろう。隣の患者さんの付添に来る娘さん、と言っても、70を超えている女性は、妹たちと交代で、毎日来られているが、彼女は、結婚せずに、ずっと両親と暮らして来たそうだ。上品な人でいかにも芦屋の昔お嬢様だった、という感じの人だ。老老介護です、と言われる。
その隣に、運ばれてきた老人は、脳梗塞だ。糖尿病はあったが、先日CTを取った結果では、わからなかったそうで、ふらつくが家に帰った。救急車で運ばれて、MRIを取って、脳梗塞があることがわかった時には、遅かりし。それまでは一日に一万歩、歩いていたそうで、ゴルフにも行って元気だったとか。病室で大声で叫んでいる。廊下に出ている奥さんは、部屋にいるのが耐えられずに、廊下にでている。どうしようもないからだ。
「嫁が世話していると、大人しく良い顔をしているのですが、私が交代すると、パジャマを脱がせ、おしめを外せと怒鳴って、トイレに、自分で行こうとするのです。ベッドから、降りようともがいて。」とオロオロ。ベッドの下にマットがあるのは、落下防止の為だろう。
可愛いくて優しそうな、芦屋夫人、病気のご主人も、矍鑠として、昔のハンサムという感じ。昨日まで健康の為に一万歩歩いていた人が、突然倒れて、おしめになれば、意識はあるので、我慢が出来ないだろう。が、さすが、息子の嫁には、良い顔をして我慢。嫁さんには、甘えるだけ甘えが出る。部下を使って偉そうな生活をしていたものだから、税理士事務所を開いてからも、その環境が抜けなくて、大柄な態度で、ワンマン経営だったと奥さんはおっしゃる。
芦屋、夙川、と言えば、関西の屈指の住宅地で、昔の風習が生きている。何代も家族が住んでいる家もある。長男のお嫁さんの立場と責任は、受け継がれているようだ。病院に、毎日朝早くから、夜まで付き添いにやってくる女性も、姑の世話。車は介護車のレッテルが貼ってある。お嫁さんでも、立場は、お手伝いか、介護士。姑の権威がものを言わせている。長男と結婚するものではないといわれてきたのは、昔の事ではない現実を見る。 
  

Posted by アッチャン at 23:13Comments(0)日々の事

2009年07月10日

想像力があれば

 

リウマチの治療薬プリゾニゾンの投薬で、確実に母の炎症反応は下がって来ている。今週の火曜日の血液検査では、3,9になった。貧血も、赤血球も正常値にさらに近づいた。食欲旺盛で、出される食事はほとんど全部食べるようになった。食事に生ものは出ないので、お造りを買ってくる。昨日はスイカを買って来て、ほとんど母一人で食べてもらった。野菜ジュースにケーキや和菓子を入れておくと、夜の間に食べているのか、結構なくなっている。今日、生協にお造りとジュースなど買って来たら、5階の売店で買った、どらやきとロールケーキを食べ、野菜ジュースを飲んだところだった。6時にご飯が来るのに、食べられないのではないかと心配したけれど、お造りとご飯は全て食べた。
毎日体重を計っているが、食べている割にはあまり変化がない。朝のミルクも必ず飲んでいる。
 母は、そこが病院であることを、認識しなくなって、家だと思っている。狭いながらも居心地が良いらしい。気兼ねがなくて、どの人も親切、笑顔で接してくれる。母の手を引いて、何度も廊下を散歩すると、出会う人達と自然と話をするようになる。海の見える、休憩所にいつも座っている夫婦がいる。母を見て、「この方は良く、もてたでしょうね。可愛らしいから。」
 病院のスタッフも、母を嫌いになるわけにはいかない。いつもニコニコ楽しい笑顔、謙虚で、感謝、感謝の言葉だから。こまることは、最近になって、思ったことをアカラサマニ口にすること。
 昼食を、広くて気持ちが良いから、と談話室で取るときがある。一人で食べている患者さんを見ると、母は可哀そうで、涙を浮かべる。
「一人ぽっちなんだわ。かわいそうに。」耳が遠いので、小声ではない。母の声を抑えるわけにはいかない。
酸素マスクをした状態で、車椅子で運ばれてくる老人を見ると、母はまた、かわいそうにね、と涙する。母自身が、「ひとりぽっちの寂しさ」を知っているから、そういう言葉が出て、感極まるのだろう。
言われている人は、自分の寂しさに太鼓判を押されたようで、よけいに辛いのではないだろうか。
「いいですね。娘さんですか?うちは息子しかいなくて。嫁さんも働いているので、来てくれません。ここには連れて来てもらわないと来られませんしね。」
 「私も息子が一人、遠くにいますから。病気の時には、よけいに心細いですものね。」と自分自身の事も思って言った。
私も3週間ほど入院したことがある。母が来てくれないかな、と思ったものだ。2日間、付き添ってくれたことを感謝している。点滴の間に、トイレに行きたくなる。ベッドでしびんをあててもらった経験がある。あれは本当に助かった。
1週間もすれば、抜糸して動きやすくなる。毎日退屈で、母は来てくれないかな、と期待して待っている。母は最初のうちは来てくれたけれど、あとは忙しいのと、安心とであまり来ない。若かったから、それほどではなかったけれど、老いて、弱りきった上に、先の希望のないお年寄りの寂しさを想像すると、ひしひしと孤独感が伝わってくる。
 躊躇しないで、声をかけてあげた方が良い。そっと話しかけてあげると良い。笑顔で接するだけでも良い。
要は、想像力があるか、ないかの問題のような気もする。その人の寂しさ、痛みに、想像力が働けば、その人の気持ちに寄り添うことができるのだけれど。寂しいお年寄りが、多い。
  

Posted by アッチャン at 00:46Comments(0)日々の事

2009年07月04日

「わが心のオルガン」

 

 使ったことのなかった、ツタヤのクレジットカードが出てきた。期限は7月まで。裏を見ると、クラスAが使える。以前に、銀行のカードで、それが使えたが、そのサービスがなくなっていた。このまま没にしてしまうのはもったいないので、コナミの帰りに、いつも目には入るが、入った事のなかった店に行ってみた。目的は「梅蘭芳、花の生涯」という映画のビデオだった。
今年の4月に上映されていたらしいが、今では地方の特別な場所でしか見られない。玉三郎が敬愛した、京劇の女形で、「牡丹亭」を玉三郎が上演する、礎となったスター。彼の生涯を描いた作品だ。そのビデオはまだ入っていなかった。友人から勧めてもらっていた、イビョンフォン主演の「わが心のオルガン」という韓国映画があったので、それを借りた。

 友人が感動したという作品で、前評判への期待がおおきすぎたせいか、それとも、家のテレビで、間に邪魔が入りながら見ていたためか、それほど惹きこまれて、という感覚はなかった。客観的に見ることのできる映画で、リアリズムに徹している。17歳の少女が、新米教師に、抱く複雑な感情、行動が、見事に描写されている。
 映画のラストシーンによって、この映画の全ての意味、価値とともに、感動を呼び起こす。出来事の必然性が、最後のシーンによって、証明される、という、何か数学的な法則、感動を生む、明らかさを実感する。
 見終わって、ほのぼのと、いつまでも心に残る「愛のぬくもり」登場人物と共感する、郷愁。「わが心のオルガン」のように、なつかしく、心に響く。

以下は、DVD紹介からの抜粋

 1960年代の田舎の学校を背景に,赴任したチョンガー先生と彼を片思いする女子生徒との切ない愛を描いた叙情的な映画

▼60年代の初め,江原道の山里の村に住む17歳の少女ユン・ホンヨンは,晩学の小学生。ある日,道の曲がり角でサンリ小学校に赴任する21歳の独身教師カン・スハと偶然に会い,<お嬢さん>と初めて呼んでくれた彼を愛すようになる。

▼ホンヨンの担任をするようになったスハ。ホンヨンがスハに提出する日記帳は,慎ましい愛の告白で満杯だけれど,スハはホンヨンの気持ちを考えず返してしまう。スハは,同じ日に赴任した美しい同僚教師ヤン・ウニに好感を持っていて,ホンヨンの期待に違い,子供たち間ではスハとウニのうわさが出回る。

▼しかし,ウニは,ソウルの婚約者とともにサンフランシスコに留学するため学校をやめてしまう。スハは失恋の痛みで苦しがるけれど,ホンヨンの胸は喜びで一杯だ。
 
 1999年の作品。


  

Posted by アッチャン at 17:19Comments(0)映画

2009年07月02日

退院まで、秒読み




 


 母は、今朝も元気。朝、病室に入ると、すでにお粥もみそ汁も、残さず食べ終わって、薬を飲むところだった。卵を一つ食べて、ミルクを飲んでもらった。体温計を買って来たので、測ると36度5分。 平熱。時間と共に、母の体重が変化するので、病院の検温計では足りないので、体温計を買った。
 昼前になると、微熱が出る。熱が出ると連動して、少し痛むところが出てくるが、夕方になるとすこぶる良くなる。以前から夕方には元気になっていたが、朝食時から痛がらず、きちんと座って食べているのをみるのは、プレドニンを服用するようになったから。
 夕食に、まぐろの造りなどぺろりと食べ、ご飯も10割食べるようになった。
 口に入れたものを、飲み込めなくて滓を出していたのだが、喉に通るようになったらしく、出さなくなった。
 最近は、何でも美味しいそうだ。
  昨日は、夕方来ると、冷蔵庫に入れておいた、草餅を2つ食べ終わった所だった。
 これでは夕食が食べられないのではと心配したが、結構食べられた。
薬剤師が、このプレドニンを飲むと、食欲が出て、食べ過ぎるので、肥満になりやすい、と言っていた。 
 今まで、食べなくて困っていたから、こちらはありがたい。体重を量ると、39キロしかない。42キロあったのは、むくみによるものだった。ふっくらしていると思っていた手の皮が浮き彫りになって、皺が皮の流れに光る、水面のように見える。
ふくれあがっていた足首が、細くなっている。もともと大根足だったのが、普通の足になっている。いくら食べても肥満には、まだほど遠い。
 昨日の夕方、リハビリを担当してくれる整体士が部屋に来て、これまでの経過を聞いた。 可愛い男の子なので、母は、あからさまに「可愛いわね。」と見いっている。
今日から、リハビリが始まる。
「無理ないように、楽しくやりましょう。」
毎日かどうか、わからないが、母の楽しみが出来たようだ。
 今飲んでいるプレドニンを初め、リウマチの薬は、感染症に対する抵抗力が落ちる。
薬というのは、諸刃の剣。必ず、副作用がある。
 医者は経過を見ながら、プレドニンの量を減らしていくと言う。抗リウマチ剤を使うかどうかは、まだわからないが、使っても、この先、何十年もではないのだから、食欲が出て、痛くなく、快適に過ごせるようになれば、とも思う。その反面、年寄りは、感染症に対する抵抗力がないのに、その上、更に負担がかかるというのも気がかり。

 廊下で内科の主治医に出会った。
「順調に回復していますね。リウマチなら、なんなら退院されますか。リウマチで入院していなくても良いから。」
 「今日からリハビリが始まるのですが。」
 「じゃ、リハビリが終わったら。」

 次の血液検査でCCPをお願いしています、というと、手真似で、一旦病室に、という。

 
 「まだ炎症もあるし。」というと、リウマチ患者は、それがなくなることはないから、と言われる。「内科的には全て調べて、無気肺の小さな部分はみらるが、それが問題にはなっていませんし。」と言われた。

 今、すぐに帰っても、お嫁さんも困るだろうし、母の足腰もまだ確かではないので、リハビリで、様子を見てからということにしてもらった。
医者は、母が早く退院したがっているだろうから、あとは通院でもよいと判断していたようだ。
 「居心地が良さそうです。注射はないし、食事も美味しいらしいですから。」
 
 もう少し、母の体調を整えて、血液検査の結果も良くなって、リハビリをしてもらって、と私は思っているが、退院すれば、私の負担は少なくなる。もう少しの我慢。
  

Posted by アッチャン at 13:56Comments(0)日々の事

2009年07月01日

あの人に会いたい

  
  昨年3月

http://kenplatz.nikkeibp.co.jp/article/building/news/20071012/512295/?ST=print 黒川紀章について


 昨日、NHKの「あの人に会いたい」は、建築家の黒川紀章だった。カザフスタン新首都計画は、建築家の死後、何十年先の完成を目指して今も建築途上にある。インタビューに応じている、黒川さんは、まだ若々しかった。
未来の人達に受け入れられる建築でなければならない。その為には、哲学がなければならない、と、黒川さんは、語っている。黒川紀章は、「共生」という精神を50年間貫いてきた建築家で、都市建築に力を注いで来た。
 黒川さんの「共生」とは、違いを違いとして認めながら、互いの共通点を見出して共に生きていこうという思想で、価値観を異にする人達、文化の違う人達、宗教の違う人達、様々な「衝突」「摩擦」を生み出し「戦争」によって、破壊しあい、殺しあって来た人達、が、その多様性を認めながら、共通の生き方が出来るような、そういう都市建築でなければ、建築家とは言えない、というのが黒川さんの主張だと思う。
吉田さんが、絵画に込めた哲学も、まさにそれである。吉田さんのライフワークは、「命」と「平和」。
 吉田さんも、事あるごとに、「人間は何故生きているのか?」「生かされていることへの感謝と、至らなさ(答えられない自分の至らなさ)」を仏壇に向かって、詫びながら、「少しでも近づけるように、力を与えてください。」と毎日祈っている、とおっしゃっていた。
神の使命、という言葉で表現されているのは、「平和」な世界の実現を目指して、努力すること。吉田さんはご自分を画家だとは一度もおっしゃったことはなく、「絵を描く」ことで、平和の実現、命の大切さを、絵画という表現形式を通して、見る人に「共感」を呼び起こす為に、日々、絶え間なく、働いておられた。
 吉田さんの絵が、50年後、100年後に、未来を生きる人々に迎えられ、必要とされ、魂の拠り所になり、平和への道を、人々が歩むことを願っておられた。そういう絵画でありたいと願っておられた。絵画に哲学がなければならない、と吉田さんがおっしゃっていたのは、そういう祈念からだった。
NHKの「この人に会いたい」を見て、「吉田さんに会いたい。」と思う。
  

Posted by アッチャン at 16:11Comments(0)日々の事