2010年07月15日

パリ

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日本名は、「パリ20区、僕たちの学校」原題は、「壁に狭まれて」。

 ドキュメンタリー風の作品で、パリの街角の風景は出てこない。
学校の教室での授業風景と、教員室での教師達の会話、 建物の壁に挟まれた、狭い校庭でボールを蹴って遊ぶ子供達、2時間以上の比較的長い映画の進行は、これが全て。


 教師達の自己紹介から、映画は始まる。どの教師も、疲れ切った表情、くたびれて人生を諦めた感じが強い。その中で、一人、目の輝きを残し、エネルギーのある教師がいる。
 授業は、その教師と、教室の子供達との、葛藤に似た授業での、会話、態度から見えてくる、人種的、社会的、さまざまな人間の壁の中で、子供達の強さ、希望、可能性、純真さ。冷静さ、賢さを、等身大で描いている。

 20区は、アラブ人達が多く住んでいる地域。吉田さんが、おもしろい場所だよ、案内してくださった、地域だった。
 
 フランスは、自由と平等をかかげているけれど、パリの中に、偏見と差別は、息づいている。この学校に通う子供達にとって、フランス人は、差別する人達、異国の人達のような、恐怖を抱く存在にも見え、その中で、子供達は、フランスに属する人としてのアイデンティティーも内包している。

 

 ばらばらで纏まりはなく、反抗的な子供達の教育に、投げだし状態の教師達自身も、パリの他の学校での教職からの、いわば落ちこぼれ状態。
 エリート校には、エリートの教師、落こぼれ校には、落ちこぼれ教師、悪循環から、希望的観測があるのだろうか。手に負えない子供は、職員会議にかけ、退校に。この底辺の学校を追われた子供達が、教育を続ける場所が、パリに残されているのだろうか。

映画の中で、フランス語のわからない母親が、会議にかけられた子供の、弁護をする場面がある。
 「とてもよい子なんです。弟の勉強を見て、母親の手伝いをしてくれる、やさしい子です。どうか、助けてやってください。
投票の結果は、いつもそうであるように、教師達の投票で、退校処分。」

母親は、それを息子から聞き、凛としてして立ち上がり、一言「さようなら」と言う。 教師達への決別、教育の無力への決別、人間性の信頼への決別を意味している。

 そして、とどめを刺すのが、授業で学んだ事を、問う教師に、子供達が答える中で、
教師を小馬鹿にした態度を取ってきた、頭の良い女性徒が、自分が一番学んだのは、姉の本「国家論」だと答える。
教師は、彼女の教師査定会議で代表として出席していた時の態度が、無礼で教師に対して失礼だ、まるで、娼婦のようだ、と暴言を吐いていた、女性徒だ。

教師は、彼女に、プラトンの「国家」を読んでいる姉が政治学科だろうと言い、彼女は、法科、だと言い直す。
 何を学んだのか、と教師は尋ねる。
「ソクラテスが町に来て、人々に知っているか、と問う。

「国について、家庭、人間、愛 について」女性徒は、本から学んだ、と言う。

この映画が、フランス映画会最高の、「金賞」に輝くにふさわしい、テーマがここにある。

 教師は、教える存在ではない、子供達を教育出来る存在ではない。子供達から、学び、知識を得て、成長していかねばならない存在であるということ、そうあることによって、子供達は、答え、成長していけるのだ、というテーマへと結実していく。

 最後に教室に残った、女性徒が、おそるおそる教師の前に来て、つぶやく。
「私は何も、何も学んでいません。でも就職したくないのです。」
 
 画面は真っ暗になって終わる。

明かりの見えない、真っ暗な未来、最初から、やり直さねばならないことを表現している。

 優れた映画は、映画が終わってから始まる、と言われる。この映画も、そんな作品の一つだ。  

Posted by アッチャン at 11:41Comments(0)映画