2011年09月30日

酒井抱一と江戸琳派の全貌

     


http://www.city.himeji.lg.jp/art/

酒井抱一の絵画を見に、姫路市立美術館に足を運びました。
姫路と聞くと、なんとなく遠いという感覚があったのですが、三宮からは、
新快速で、40分。新快速は、15分に一本走っていますから、とても便利。
 三宮で阪急を降りて、格安チケットの店で、JRの切符と前売り券を買うと、JR切符が、片道900円で買えました。
 車窓から見える、海を見ていると、心がうきうき。紫外線で、シミの心配もありますが、太陽燦々の中、日よけをしないで、きらめく海と移り変わる景色を観てると、旅行に出た気分。
 姫路からは、バスに乗った方が良いよ、と先日行った友人からアドバイスをもらっていたのですが、ビラを配っていた若い人にバス停を聞くと、「歩いても15分くらい、今日は、汗ばむほどでもないですよ、」と近道を教えてもらい、商店街をぶらぶら歩いて、カメラで写真を撮りながら、美術館に。



http://www8.kobe-np.co.jp/blog/hoitsu/

 煉瓦造りの素敵な美術館です。周りの庭に、彫像がいくつか。
 酒井抱一の絵画は、NHKで、2回、再放送でも紹介されていました。玉三郎がゲストで、抱一の素晴らしさを語っていました。
 展示は、8月30日から、3期に分けて、展示品の入れ替えもあって、紹介されていた、尾形光琳の「風神雷神」の裏に、抱一が描いた、「夏秋草図屏風」という重要文化財に指定された作品は、第三期に展示され、9月21日から、10月2日の日曜日の終了まで。 土日はきっと混むでしょうね。平日でも、結構入場者がいましたが、絵画をじっくり鑑賞することには、差し障りのない程度。午後の2時半を過ぎていたので、閉館までの2時間半をかけて鑑賞したのですが、それでも、随分沢山の作品があって、あとで、名前だけ観ると、どんな絵だったかと、わからないものも。
 玉三郎が、好きだという気持ちが伝わって来るよう。


 
 気品のある、それでいて、伸びやかに大胆で、筆使いが繊細で、余分なものが一切無い、素晴らしい絵画ばかり、「風雅」の極みを、心と身体で、絵画に具現化したような作品、玉三郎の美と、共通するものがあります。
蒔絵の格調高い品々の絵も素晴らしかった。12枚の短冊に描かれた、十二ヶ月の花を描いた作品など、個人蔵も多く、魅入られるものばかり。
 弟子の鈴木基一、江戸琳派の継承者が描いた「芒野図屏風」も素晴らしい。

 海外の絵描きが、日本の絵画に憧れを抱いたのは、規制のない、自由な構図と繊細な筆使い、遊び心の豊かさ、シンプルでありながら、色使いの大胆で、気品のある美しさ、それは感嘆し、感激したことだったろう。

 一筆で描かれた、西行の絵画は、抱一の姿をも映してるよう。

 

 常設展は、姫路のお医者さんが、コレクションを寄贈したものばかり。
ヨーロッパ絵画の収集品。
  ユトリロの白の時代の絵画が目を引いた。セザンヌと思わせる、ブラマンクの作品。シスレーがこんな絵画描いていたの?ピサロの絵は良かった。


 
 帰りに、昼ご飯も食べてなくて、お腹が空いて、寿司屋に入った。
  夫婦でやっている小さなお店、6時半までの営業。
  にぎりを注文した。赤だしが美味しい。にぎりも新鮮なお魚で、ねたは上にぎり。
値段が、950円。姫路は安いのかしら。穴子のちらしと迷った、というと、奥さんが、来られる人がそういうとか。
 連日、美術館に来る人が多いので、お寿司屋さんにも。



 
 
絵画の話しながら、介護の話や、今のうちに遊んでおこうという話に。
 ちなみに、朝、美術館に来る人は、抱月の生菓子をもらえるそう。だから、私が入った頃は、空いていたよう。朝からは入場者は多いそう。商店街の端に、美味しそうな店があって、2時過ぎに、すでに、本日完売しました、という札が出ていた。


    

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2011年09月27日

映画「ディア、ハンター」

 
  
http://youtu.be/3Gqit3zVmyc

http://youtu.be/lqakCa-MysE

 マイケル、チミノ監督の「ディア、ハンター」は ベトナム戦争の悲惨さ、恐ろしさを表現しているだけではなく、アメリカという国の在り方をも問いかけ、批判している点で素晴らしい作品になっている。ベトナム戦争を、平和の尊さの視点で描いた「帰郷」という映画も、心に深く残る作品であるけれど、「ディア、ハンター」は、移民の目を通して、描いている所が特徴的だ。
 彼らは、工場の労働者で、山間の小さな工場町に暮らしている。仕事が終われば、酒を飲み、冗談を言いあい、山でハンターを楽しむながら暮らしている。
 結婚式を終えたら、出征する若者、スティーブンス、ハンターのマイケル、その親友、ニック、彼らは、思うに、イタリア、ロシア、ポーランドから、アメリカに暮らしと自由を求めてやってきた移民のアメリカン。
 この田舎町で暮らす、人々も、イタリア系、ロシア系、ポーランド系などの移民だと思う。演じている俳優達の顔ぶれからも、それが伺える。
  マイケルは、鹿内の名人だったが、戦争で、人間狩りを体験してから、鹿狩りが出来なくなった。
 スチーブンスは、ゲームで、人間にピストルで頭をぶち抜く恐怖に怯えて、気がおかしくなる。マイケルに助けられながら、逃げ延び、ヘリコプターで助けられるが、両足と片手を失い、心を病み、妻と子供、仲間を遮断して、同じように傷ついた人々のいる病院の中に閉じこもっている。
 マイケルとニックは、逃げ延びるが、途中で出会った、軍のトラックに、病人のニックを預けて、1人、戦禍の中に。
 やがて、戦争が終わり、マイケルは帰ってくる。シティーブンスを病院に訪ねると、彼の元に、送られてくるドル札の山。ニックがいるところは検討がつく。ゲーム場で彼を見つけ、見失ってしまった場所に、ニックはいた。彼は、あの恐怖のゲームをやっていた。
 ニックは、マイケルがわからない。精神障害で、記憶を失っている。
 マイケルはゲームを2人で、やれば、記憶が戻るのでは、とあぶない賭に出る。
 ピストルの中に玉を一つ入れて、頭にあてるゲーム。アメリカドル札をかけて、周りの
賭人達がむらがる中。
 マイケルが一発、外れた。森が好きなんだろ?森に帰ろう、故郷に帰ろう、とマイケルはニックの記憶を呼び戻そうと語りかける。ニックが精神を病んだのは、ベトナムで捉えられて、このゲームで死んで行く恐怖からだった。
 ニックにやめろと止めるが、ニックは、一撃、という言葉を思い出しながら、彼が頭にあてた玉が、爆発する。

マイケルは、ニックの亡骸を持って、帰って来る。埋葬が終わり、車椅子のスティーブンスを世話しながら、皆がいつも集まって騒いだ、バーに。
 暗い朝食、台所で、泣きながら卵焼きを焼いている、バーの店主は、アメリカ国家の歌を口ずさむ。
 神の加護をアメリカに
 森と大地の故郷に

 集まっている仲間も歌い出す。
 神の加護が、アメリカに
 森と自然の大地の故郷に

 アメリカは兵士を募るのに、移民や、貧しい人々をターゲットに勧誘している。
 自由に生きることを、平和に生きることを希望して、やってきた人々が、命を投げ出して、アメリカを守るという矛盾と憤りを抱かずにはおれない。
 映画の中で、彼らは、素朴で、優しくて、思いやりが深く、敬虔で、慎ましい。
  それだけに、戦争の愚劣さ、憤り、反戦の思いを深くする。

ロバート、デニーロ、メリル、ストリープ、他の俳優達も、映画で最近も同じみの人達だけど、若くて、魅力に溢れている。

1978年の作品だから。

 

   

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2011年09月26日

笹倉鉄平「ちいさな絵画館」


  

 西宮北口から、歩いて15分もかからない所に、「小さな絵画館」という名の、笹倉鉄平の絵画館がある。
 民家を画廊に改装している。友人に誘われて、訪ねてみた。
 近くには公園が有り、子供達を遊ばせているお母さん達の談笑も聞こえるような、住宅街の一角。
 開館日は、土曜、日曜、祭日と、金曜日だったかしら。平日は休館になっている。
笹倉鉄平という画家は、名前は聞いたことがあったけれど、実物を見せてもらうのは初めて。世界の旅の風景を、油絵、アクリル、パステル、水彩などで、描いている。



 
 柔らかい色使いで、心が安らぐ絵画ばかり。ハッピーな人じゃないかな、と制作者を想像する。根気のいる筆遣いで、丁寧に描き上げた作品は、光をテーマにしている様に、思われた。
 夜の光は、月の光と、明るく照らされた、イルミネーションの光、木々の間からこぼれてくる、こぼれび、森を包み込むように、やわらかい太陽の光。夜の雨あがりに、濡れた地面を照り返すように、つややかに揺れる光。
 光を浴びる人々と、動物や自然を、丁寧に、一つ一つ、愛おしみながら、事細やかに描いている。

http://www.teppei.net/ 鉄平、ネット

友人の画家が、自分のアトリエを、美術館にしたい、と語っていた。自作を残して、見てもらいたいという思いは、どの画家も同じだろう。
 笹倉鉄平は、現存の活躍中の画家だけれど、こんな風に、季節を分けて、自作を、一般公開することは、鑑賞者と制作者との間に、見えない交流が出来て、とても良いことだと思う。
 普通の家なので、アットホームな雰囲気が充満していて、ソファに座って、リビングのような感覚で、絵画を楽しむことが出来る。アンケート用紙があって、次に観たい作品を、作品集の中から選んで書くようになっている。年に何回か、絵画を入れ替えて、観たい人に、見たい絵を提供出来るようになっている。

 旅の思い出を、絵画の風景の中に見いだしながら、次にこの絵画館に来る時に、私のリクエストした絵画が見られるかな、と期待も抱く。
   

Posted by アッチャン at 14:37Comments(0)art

2011年09月23日

マディソン郡の橋を見なおして。

 


http://youtu.be/k_0BxRYVnpE

最近、テレビで放映される、映画を見る時間が多くなって、遅くまで起きている。
 映画を見ながら、家事というわけにはいかないので、べったり座って入る時間が長くなった。一日に一本くらいなら、さほど支障はきたさないが、何本も、テレビの前に座って入ると、時々、立ってみないと、身体が痛い。
 以前に観た映画が多いのだけど、見なおしても、結構面白い。
その中で、「マディソン郡の橋」は、本を読んだあとで、映画館に行ったので、ロバートのイメージが、合わなくて、クリントイーストウッドが年寄りじめて見えたのだが、
 時間の経過もあり、見なおして観ると、ぴったりだと思うようになっている。
 メリルストリープが演じる、マディソン郡の主婦は、子供が17才と言うので、30代の後半から40ぐらいやく所。
 子供達も、自立してくる頃、母親の勤めに、一生懸命になっている時期は過ぎて、誠実で、優しいけれど、男として魅力を感じなくなっている夫。
 イタリア人の熱い情熱を秘めたフランチェスカは、このまま、老いていくことに、いらだちと空しさを感じている頃、夫と子供達が留守にする時間は、解放感に満たされていた。そこに、野生的で、自由に生きている男がやってくる。彼は、少々旅にくたびれ、1人の生活に空しさを感じている、初老の男性だと設定すれば、クリントイーストウッドは、ぴったりだ。昔はハンサムで、モテモテの男だったでしょうが、人間に老いはやってくる。弱さと優しさが加わってくる。
 彼は、どこかに疲れた羽を休めたい、落ち着いた場所を、心の中で求めている。
 彼女は、彼のアイルランドの情熱的は秘めても、抑制力の強い、どこか暗いイメージに惹かれ、イタリアンの情熱的な身体が、理性を抑えて、一気に吹き出してしまう。
 たった、4日間の恋、彼は、彼女と離れられないと思う。家庭を捨てて、自分と旅に出て欲しいと思う。彼女は?
 彼女には、家庭がある。退屈な生活を送ってこれたのは、家を飛び出す勇気もなかった、他の世界に憧れながらも、平凡な主婦の生活に、幸福感を見いだすことが出来たし、夫を子供達を愛して、それが自分の幸せだと思い込むことの出来た女性。
 彼女には、彼と行く勇気はない。捨てて、新しい世界に踏み出す勇気はなかった。
 彼は去り、彼女は残った。
 その後、彼女は、秘めたる恋、心の中に、秘めたる愛の対象が出来たことで、夫にも以前よりも優しくなれたでしょうし、子供達から、精神的に独立も出来た。田舎の平凡な生活を、以前とは違った自分として生きることが出来た。

 一方、彼の方は?
 永遠に、彼女の事を思って、誰とも、交わらなかったとは言えないだろう。けれど、どこに行っても、空しさは余計に深くなっていく。1人身の辛さ、老いの孤独はひしひしと迫って来る。彼女の情熱的で、ひたむきな愛、それが彼の心に、郷愁という名の温もりを与える。
 彼の分身とも言える、カメラ、それは彼自身。彼女の首にかけていた、ネックレス、彼はそれを彼女と思って、幾度の夜、抱いたことだろう。
 彼が、マディソン郡の橋を、写真に納めた本を送ったのも、彼自身を彼女の元に届けたかったから。彼は、彼女の胸の中で、疲れた羽を休めたいという欲望に、寒さの中で、身を震わせたに違いない。
 だから、最後に、自分の遺品を、彼女に元に、届けさせたのだ。持っていて欲しい。抱いていて欲しい、と。  

Posted by アッチャン at 12:22Comments(0)映画

2011年09月13日

真の民主主義は、原発をやめることから

 
  


 野田政権になって、政策よりも、どじょうの話や、ノーサイド、謙虚な人柄、心を捉える演説の旨さ、にスポットがあてられ、国民の支持率が高くなっている。
  間違ってませんか? ワイドショーで、政治を左右されては、たまったものではありません。もういい加減に、やめようではありませんか、と言いたいのは、マスコミの視聴率だけを重視した、企業に媚びへつらう、ジャーナリズムの欠如です。

  本当に大切な事は、隠されています。うやむやにされ、闇の中に。
 松下政経塾の卒業生達が、国の政治を動かすことに、なんの抵抗も感じませんか。
 財政の健全化と、経済の発展を同時にさせる、という構想は、バランス感覚があり、最もだと思えるかもしれませんが、国民の負担を更に強いることであり、経済至上主義を、このまま推し進めることで、資本主義経済の弊害は、弱者が負うという構図を支持することであり、民主主義の敗北を意味するものではないでしょうか。

 大切なもの、政権交代で国民が民主党に期待したのは、民主主義でした。国民が主役の政治だと思っていたのは、リベラルな考えの人達で、国民の大半は、安定した保守政治
だったようです。

 松下電器は、パナソニックに名前を変えて、家電は、東芝に座を奪われ、コンピューターも東芝やソニーに及ばない。経営は悪化しています。商売の神様と呼ばれた幸之助は、クリエイティブな人ではなかったようです。

 野田政権は、官僚丸投げ政権と言っても良い。かつての自民党政治への舞い戻りです。 自民党の政治は、終わらせなければならなかったのに、顔を変えて、復活したのです。 更に、いけないことには、右翼化を推進しているのです。
  自衛隊に武器を持たせて、武力行使が出来るように働きかけをしているのは、前原さんだけではなく、それは、野田総理の考えでもあるのです。
 原発を再稼働させると宣言していることは、再稼働の為のストレステストであり、結果が決まっていて、安全は無視され、以前に戻すということです。

 なにがチルドレンファーストですか?言葉とは裏腹ではありませんか。

 アメリカが、テロとの戦いで、10年経っても、テロに対する警戒を強め、安心どころか、恐怖と不安が増大しています。
 アメリカ人の犠牲者は、3000人、テロとの戦いで、犠牲になった人は、18万人、これからも増え続けるでしょう。
  3000人の命の尊さを、本当に思うのなら、目には目をではなく、「受け入れる」ことで、相手に反省を促し、悲しみを共有してもらうべきだったと思う。
  

 チルドレンファーストなら、原発の再稼働はあり得ない。
 私達の暮らしに、間違いがあったことを反省し、生き方の転換を図る以外に、日本の
未来はありません。

 若い人達が、消費を嫌い、つつましやかで、お金とは無縁の生活を大切にすることを、困ったことだと考えるのは、経済至上主義の考え方です。
 消費経済が、心を豊かにしてくれないということを、証明しているのです。
 
 海外に行きたがらない、内向きで困ったことだ、と言うのは、世界戦略が好ましいと思っているからです。
 海外に行かなくても、幸せに暮らせるのなら、それはそれで良いではありませんか。
 多くを求めない、名声を求めない、皆がほどほどに、幸せで、皆がほどほどに傷つかない生活、ほどほどに分け合って、ほどほどに楽しく節約しながら、ほどほどの必要な消費をすることで、地球の環境が守られ、共存して生きる道が開けるのでは?

 脱原発は、脱経済至上主義、脱侵略主義への1歩です。
戦争のない世界、人々が殺し合わない世界への扉です。
   

Posted by アッチャン at 12:00Comments(0)コラム

2011年09月12日

 映画「一枚の手紙」から

 
  



 震災から、6ヶ月の9月11日は、ニューヨークの9,11の10年目の日でもあった。 震災は、自然災害だと言われるが、津波の対策がなされていたら、被害はもっと防げたはず。ニューヨークの象徴であった、ワールドセンターに、飛行機が衝突、多くの犠牲者を出した。
  福島原発の事故は、かつて、アメリカに投下された原爆の何百倍もの放射能を放出している。校舎能汚染から、子供達を守れるのだろうか。すでに多大の汚染で、子供達は体内に被爆してしまっている、かつては死の灰よ呼ばれた、放射能を、これから先、消し去ることは不可能だと言われている。
  

 日曜日のお昼から、やっている居酒屋がある。梅田の地下街にある、庶民の味方みたいな、安価で、美味しいものと、お酒が飲める。
 いつも、並んで席が空くのを待っている人達がいる。比較的回転が速く、15分も待つ気で居れば座れる。
  平和だ。ここに座って入る人達は、災害に突然襲われることを想像していない。
 ワールドセンターの中で、働いている人達だって、いつもと同じ生活をして、コーヒーを飲み、家族に電話をかけ、笑って話あっていただろう。
  
  昨日、友人と別れてから、梅田のテアトルで上映中の「一枚の手紙」を見た。
 テレビで、この映画が好評で、何日も前から予約を取らないと、見られないくらいだ、と聞いていた。
 幸い、一席空いていて、時間まで、1時間ほど待っている間に、茶屋町に出来た、丸善の書店に。
 芸術書のコーナーに、辻さんという画家の画集があった。一度、個展を見に行ったことがあった。
 和気さんも、吉田さんの画集もなかった。
 本当に大切なものは、隠されていて、見えないのだよ、「星の王子様」の言葉がふっと。

 テアトルに戻ると、すでに開場になっていて、満席だった。通常は、廊下側の席を取るのだけど、その席は、真ん中で、一旦入ると、途中で出にくい。
 ビールを2杯も飲んだので、トイレ大丈夫かと、心配になる。

 映画が始まると、近くで、もうすでに、すすり泣きの声がしている。 観客はほとんど、年配の人ばかり。戦争を記憶に残している人なのだろうか。
映画は深刻に作られてはいなかった。 笑いを誘う場面も幾つか、時折、場内から笑いが聞こえた。深厚な内容なのだけれど、滑稽でもあるのだ。
 人間が生きていくということは、そういう風なのだ。リアリズムを追求した映画で、
99才という高齢が、アルカイックな心境を映画に反映させている。
 大竹しのぶの演技が、大げさで、ヒステリックな声で、演劇的、かつ音楽的要素を加えている。

映画である以上、観客を楽しませてくれるものでなければならない。そして、何も残らない映画を、現実からの逃避と言うなら、この映画のリアリズムは、現実を踏まえての、希望の光を投げかけている。

 戦争は憎むべきものであることは、平和を願う人間なら、当然のことだけれど、日常の生活の中で、身に起こってくる事、戦争、同時多発テロ、東大震災、原発の事故、それらは、人間が自ら作り出す、悪の局面で、その犠牲になる庶民や弱き人々は、ただ、それを受けざるを得ない。人間は弱い。なすすべもなく打ち負かされる。
 けれど、だから人間は、それで死滅していくのか、というと、そうではない。
人間は強い。打たれても、打たれても、這い上がり、希望に向かって、生きて行く。それが人間というものだ、とこの映画は、語っている。
 どんなに悲惨な状況にあっても、人は笑えるのだ、おかしくて笑い転げることが出来るのだ、ということ。
 焼けた家後に、麦を植える。踏まれて、育つ麦は、人間の生き様を象徴している。
 やがて、実り豊に実をつける黄金の麦。  

Posted by アッチャン at 15:55Comments(0)映画

2011年09月10日

歯の状態が良くなっています。

 
 家の庭の花


 金曜日、車を運転して、歯医者さんに。
  通い始めて、4度目。
 毎回、歯のかみ合わせを調節してくれる。
 紙を挟んで、左右にぎりぎりと動かし、次に、別の色の紙を
挟んで、カチカチと噛む。その色のついた部分を、ガリガリと
音を立てて、削って行く。
この繰り返しが何度も。
一回ではすまない。日をあけて、また繰り返される。
 私の歯は、随分楽になっている。
 ずっと鬱陶しい思いをしていたのが、今は痛みがなくなって、
抑えると、まだ慢性的な痛みはわずかにあるものの。
 2度目に、歯石を取り、歯の歯周病検査をした。3度目は、下側の
歯の歯石を。その間も、歯のかみ合わせの調節は時間をかけて続けられた。
 2度目に、歯周ポケットの検査をしたのに、またなので、
この前しました、と言うと、先生からの指示だから、と。
 その後、悪い歯の歯肉の内部をお掃除。
 これからは、週に一度の割で。



 このまま、治ってくれれば、と願う。
 以前に通っていた、歯科医は、レントゲンを撮り、見て、だめだから、抜く以外には方法がないとの判断。
 インプラントを勧めて、CT撮影の為に、息子さんが開業している歯科に。

  なんとか抜かない方法はないだろうか、と歯科医に。方法はないとのこと。
 抜く前に、相談を、という自由診療で歯内療法をしている、門戸厄神の歯科医の所に。
 ここでもだめだった。助かりません、と。

 
  
 インプラントにすると、すごいお金がかかる。
 従姉妹に相談したら、ノークラプスの入れ歯が良いと勧められた。
 抜くのは仕方ないか、と覚悟を決めて、最初の歯科医に行った。
 歯科医は、一番奥の歯を根だけ残して切断して、マグネットで入れ歯を作ることを提案した。次に来る時までに、息子さんが映した、CTを見ておきますとのことだった。

  あのまま、諦めていたら、私は、2本も歯を失っていたことになる。
  
 私の歯の状態は、それほど悪くないとのことで、先生は、「良い感じになってきています。」と。
 これで落ち着けば、歯は助かるし、お金もかからない。
歯科医が、「病気になれば、その原因を確かめるために、順に、問題の起こる可能性を一つ一つ除去しながら、病気の根本原因を見いだしていくでしょう。」と。
 私の場合、かみ合わせると、歯が随分動いているので、相当なストレスがかかっているので、噛み合わせの調節で、病巣も治ってくるのでは、と思われた。
 まだ、これが解決方法だとは、わからないけれど、様子を見て行く。一月後に、レントゲンを撮って見るとのこと。
 本当に、有り難い。
   

Posted by アッチャン at 15:46Comments(0)日々の事