2011年11月29日

 榎忠展を見て

 

   


 怠け者の私ででも、書きたいという衝動にかられる時がある。
 日曜日、友人と昼食をして、別れた後で、友人から頂いていたチケットの最終日、兵庫県立美術館に、梅田から阪神で。 
 榎忠、の展覧会だった。頂いたチケットを無駄にしては申し訳無い、という気持ちだけだったのだけれど、私は大きなプレゼントをもらった。
 忘れていたもの、心の奥深くに、沈み込んで記憶に意識に登ることの久しくなかった、私の原風景と呼べるものの数々を目の当たりにして、言いしれぬ感動が沸き上がった。
 私は泣いていた。涙が溢れた。


 
父の工場の足場に転がった、鐵屑は、旋盤で鐵を削った後の残骸。私はそれらを践みながら、父の側で、油の匂いのする父が、ネジを作っていたり、火花を鐵の仮面で覆って、 鐵を焼いているのを、見て育った。



 工場は、私の遊び場だった。工場には、鉄くずが転がっている。隣の遊び友達のお母さんは、鉄くずを拾って、生きる為の最低のお金に変えていた。その頃は、面白いからとやっていた遊びのようなものが、榎忠の作品の中に、機械と格闘しながら、人間の肉体と、精神力とで、鐵を創造の形に変形させてる様の、無限大の力を感じて、
 隣のおばさんお痩せこけた小さな肩に、網の目の破れた袋から、はみでていた、針金や、鐵屑を含んだ、いびつな形と、肩にくいいる苦悩の顔は、芸術だったのだと。




父の手の皺に食い込んだ、重油の黒い模様。父の顔には、油のシミがついている。
 寂しがり屋の父の側で、手品のように機械から出来てくる、ぴかぴかの鐵の美が、
榎忠の作品で、私の心に蘇ってくる。


 油の匂いがするようの感じる。懐かしさと、悲しみが一挙に押し寄せてくる。
 私が、今、あるのは、父の御蔭だ。
 映画が好きで、カメラが好きで、野球もやり、お金のなかった、若い頃の話を、人ごとのように聞いていた。



 父は仕事が終わると、油の手をごしごしと石鹸を真っ白にしながら洗い落とし、映画館に通った。母や子供達の写真を沢山とって、押し入れの中で現像していた。
 友人の家に毎日のように、出かけて行った。夜中、父は好きな本を読んでいた。

榎忠

  仕事をしながら、父は、時間を惜しんで、無駄にしない人だった。
 父の生き方は、芸術家のそれに匹敵していたのだ、と、私は、新たな発見をした。



  

Posted by アッチャン at 11:57Comments(0)art