2012年01月17日

映画、「灼熱の魂」



    



カナダとフランスの合作「灼熱の魂」原名は、incendies 辞書には、火事、火災、戦火、動乱、激高、激情、等。複数形で、それらを全て含んで、「灼熱の魂」という題名になっているのだろう。

  劇作を映画化したものらしいが、映画としての表現の強みは、映像によって、状況をリアルに表現出来ることだけれど、劇作では、
語られる、肉体に密着した言葉、と舞台装置、音楽や衝撃、波の音などの音と照明を使って、内容の深さや感覚に訴える技法など、限られた装置の中から、内容を浮かびあがらせる。映画では、映像に、劇での台詞を語らせることで、進行していく。
この映画は、現在と過去との出来事を、裏と表を返しすように、
に分けて、過去の出来事を、子供が、母親の一枚の写真を手がかりに、母親の秘密を解き明かして行くというミステリーに、観客と同時に入って行く。
 子供が何もわからずに入って行くように、観客も、わかろうとする気持ちで、頭を巡らせる。
 語られる言葉の一つ、一つにどんな意味があるのかと聞きのがさない。全編をつうずる、緊迫感。映像から目が離せず、言葉の意味の謎も。パズルを合わせて行けば、最後に、ぴったりと埋まる。
 そのことが、すごく重要で、サスペンスとして、謎を解明していくうちに、出て来た答えが、一つに合一される。

http://shakunetsu-movie.com/pc/ 灼熱の魂

1プラス1は、2の筈なのに、1プラス1は、1というということ。
 双子の子供達から、距離を置き、愛を表すことの出来なかった母親は、怒りと憎しみの対象の子供達から、距離を置いて生きて来た。彼女の生きる目的は、愛する人との間に出来た息子を、探し出すことだけだった。その息子をついに見いだした時に、怒りと憎悪の対象が、愛の対象であることを知る。愛から生まれた子供達への愛。
  ギリシャ悲劇の「オディプス」では、父を殺し、母を妻として、子供までなした、オディプスが、自らの目を突き刺して、自らを追放する。精神分析のフロイドは、この悲劇から、「エディプスコンプレックス」と名付けた、幼少期の男の子が、母親が愛の対象で、それを禁止することを覚え、自我に目覚めていく。母親と子供との分離によって、
 1プラス1は2であることを覚えさせられる。

子供が最も幸せな状態を、デュラスは、母親の胎内にいる時だと言う。誕生は、母親が子供を殺すこと、子供の、おぎゃ、という無き叫びは、殺されるものの、断末魔の叫びなのだ、と。

映画の中でも、赤子の泣き叫びと、太いへその緒をはさみで切りとる場面が。厄の子供を、引き離される時に、いつか子供を見つけ出すために、つけられた3つの印。それをてがかりに、母親は、子供を探し求める。母親は、愛を取り戻す為に。
 
 殺略と、焼き討ち、血を血であがなう、果てしなき、戦いは、一つのものでしかないものを、奪い合うことで、果てしなく続く。人間の自我が、失われたものを求めているから。分断され、引き離され、なくしたのは、「母の愛」

 「美しい子供達よ、いつも側にいて、寄り添っていなさい。愛しています。」という母親の子供達への遺言。双子の子供達は、母親が、殺した最愛の息子に犯されて、生まれた
子供達。

 探し続けた息子、子供達の父親、同一人物であることは、偶然ではなく、愛に、導かれたこと。血を血で洗う争いを終わらせる術は?、
 「いつも寄り添っていなさい。愛する子供達よ。」という母の愛、それは神の愛。



http://news.walkerplus.com/2011/1215/8/ 監督の談話  

Posted by アッチャン at 11:46Comments(0)映画