2012年04月27日
こんな人生も見事だと思う
昨夜、めずらしく、電話が鳴った。
コンピューターのニコニコ動画で、小沢さんの裁判について、江川さん、郷原さん、丸山さんが、出て、司会は畠山さん、の放送をイヤーホーンで聞きながら、見ていた時に。
友人が亡くなったという知らせだった。
皆が揃っている間に、旅行しましょうよ、と時々会う友人にメールを入れたりしていたのだが、 「全員は無理でしょう。」という返事。
それそれに、生活の環境や、健康状態、経済状態も違っているから、という意味だったろう。
時どき、会っている人もいれば、長らくご無沙汰の人もいる。
亡くなった人は、同じ大学ではなかったけれど、ほとんど毎日のように、私達の学校に来て、一緒に遊んでいた。
卒業後、私は結婚してご無沙汰だったけれど、彼らは、ずっと付き合って、何をするのも一緒に、という時期があった。
皆、それぞれが、結婚して、女性達は家庭に入り、残った独身組は、同じように、遊んでいた。
年に一度くらいは、集まって、一緒に旅行出来るようになり、韓国に行った時には、血糖値が下がるとだめだ、と言って、トーストを沢山食べていた。
四国にも全員で、楽しい旅行が出来た。
あの頃は、皆、元気だった。
糖尿をかかえながら、昼は働き、夜は、飲み歩いていた生活をずっと続けて来た人で、 若い頃は、最もリッチ、倒産してからも、お金に困らない生活なので、楽しみと言えば、 夜の繁華街で、若い女性に貢ぎながら、独身を通して、気楽に生きていた。
何度かの入院、脳梗塞の後の必死のリハビリ、階段から骨折して、不自由な足を引きずって、お酒を煙草を愛し、若い女が好き。
ひょうひょうとして、淡々として、言葉少なく、一緒にいて、楽しいのかしら、心配する人もいたけれど、彼は誘うと必ず出席してくれて、彼は楽しかったのだと思う。
けれど、身体は不自由になってからは、身体を気遣ってか、毎回飲み会している人達に、別の友人達が出来て、ここしばらく、一年近く、皆、会ってなかったと思う。
先日、
「いつも年賀状の返事が必ずくるのに、今年は来なかったので、大丈夫かな、と
気になっているの。」と女友達が言った。
「え、来てなかったかしら。」と私。
案内状を出すと、彼だけはいつも来てくれていた。
年賀も必ず書く人だった。
去年の12月に骨折して入院していたことが、昨夜の電話でわかった。
でもずっと元気だったとか。お酒も毎晩飲んでいたという。
突然の死、
でも、彼の場合、残念ね、可哀想ね、とは思わない。
「いつ死んでも良い。命に未練はない。」と淡々として言っていた。
ほどい糖尿で、インシュリンを打ちながら、お酒も、煙草も好きなだけ、毎日、毎晩飲み続けて、セーブということをしなかった。
楽しみは、取っておかないで、どんどん使った。身体がぼろぼろになっていっても、
最後まで、生き方のスタンスは変えなかった。
お金には、全く困らないけれど、倒産後、社員を全員、転職させてから、自分も就職した。働いていたい、という思いを貫いた。
自家用車に乗れなくなって、ゴルフに行けなくなって、会社と家の往復に、タクシーを使って。飲み会に、よちよち歩きながら、手が動かなくても、やってきた。
飲み会の後、雲隠れする。夜の繁華街に消えていく。
自分の人生を、自分で使い切ったのだと思う。
男兄弟、3人の、皆、独身。お母さんが大好きな、兄弟だった。
会社の倒産で、社長のお兄さんが、心臓発作で急死した。 お母さんが亡くなり、
弟が、食事を作ってくれていた。
弟さん、一人残された。 自炊出来て、家事もこなす。奥さんのような仕事をして
くれていた弟さん、仲の良い兄弟、仲の良い親子。幸せの形は様々だ。
お疲れ様、良く頑張って、自由と責任貫いて、人生を楽しく、目一杯生きたね、と私は言いたい。