2012年06月25日

玉三郎の「阿古屋」に感無量


   


 待ちに待った、玉三郎の「阿古屋」ついに、観て来ました。
 翌朝になっても、まだ、夢さめやらず、ぼーっとしています。
 幸せだなあ、つくづく感謝です。
 友人が、クレジットカードの住友に、阿古屋のチケットが、割引きで買えると知らせてもらって、どこの席か、指定は出来ないけれど、15000円チケットが12000円で買えるので、二等の10000円と変わらないから、2階席になっても、と思っていたら、なんと、前から9列目の、真ん中席だった。
 歌舞伎では、最高の席で、オペラグラスが不要なくらい、微細なまでに、よく見えた。 花道から現れた玉三郎の、表現不可能なくらいの美しさ。これぞ美の極み。
 姿形の美しさに、気品漂う色香、ただ美しいのではなくて、肉体の儚さをを惜しむ美、 造り上げて来た、生きた芸術、この場限り、この時間限りで、消えて行く現実の美。



 ああ、私は、これほど、「永遠に続くことの赦されない、肉体美の美しさ、至芸の宝玉」を幸せの境地の中で、儚さ、悲しさを持って、観たことがあるだろうか。

言葉で、表現すれば?言葉がない。
 阿古屋が、景清の姿を、幻の中で追うように、夢みるような、ひたむきな表情で、目は宙をさまよい、琴、三味線、胡弓、を乱れなく見事に弾くのだけれど、阿古屋の哀れを誘う、はかないけれど、ひたむきな愛の深さは、底知れに海の底の果て、青空の天空に舞う白鳥の哀しさ、にも思われ、涙を誘う。

 そう、この役は、玉三郎以外の、誰もやれない。玉三郎が、阿古屋の化身なのか。
 阿古屋、をやれる役者を、これから育てるには、女役の為に生まれ、女役の修行を、幼い時から精進し、阿古屋の世界を再現出来る「肉体芸」を造り上げる、時間と、才能と、 弛まぬ芸動の道がなければならない。


  
 そして、幾千万の絶えざる、精進に、神から授かった才能と、運命とが、手を携えて、造り上げる、「美」が、滅びのものであるという、無常。

 玉三郎は、ここから、また高みに登って行く。昨日よりも明日、違った阿古屋が造り上げられていく。どこまで、どんな?
 玉三郎は鷺娘を描いている。雪世界の中で、舞う鷺娘は、玉三郎そのもの。
 玉三郎の衣装には、雪と、鳥の刺繍が施されてる。降り積もる、真っ白な雪の中で、
 深紅の紅のような血を流しながら、舞い死んで行く、孤高の白鳥は?

 表現に値する言葉がない。



  隣に、東京から来ている女性がいた。愛の助の後援会に入っている人だった。
 去年、テアトルで、彼女は、「阿古屋」を観ている。
 フアンなら、どこまでも、ついていくのだろう。費用もかかる。
 お金がないと、というが、違うのだ。狂っているのだ。芝居狂い、役者狂い、と昔から言うじゃないか。芝居小屋に通いつめ、贔屓の役者に入れあげて、身上を潰すくらいは、
 まだ良いとしても、借金を重ねて、盗みまで働く人も。それほどの情熱のある人は、まれだけど。3度の飯を食べなくてもという人は、今も昔も変わりなくいるだろう。
 魅せられてしまったら、もう逃れられない。熱狂であれ、静かであれ、狂うのだ。
魔物、魔の世界。
     

Posted by アッチャン at 09:19Comments(0)演劇