2012年06月28日

映画「星の旅人達」

  


 映画「星の旅人達」を観た。
 梅田のシネリーブスで上映中。土曜日に会った友人に、観ない?と誘ったけれど、
 その人は、あまり興味がない、というので、その日はやめた。
 上映時間を観ていたので、月曜日に会った友人は、クリスチャンセンターで働いている人なので、塩こうじ、を上げるのが目的で会ったのだけれど、「観る?」と打診したら、
観たいというので、一緒に観ることに。
 シネリーブスに行くと、映画は2時15分から、なので、先に食事しようと。私は、中津にある、イタリアンランチを、とも思ったけれど、彼女は、そこまで歩くのはいやだと。
 昼食ランチ、一日20食のスパゲッティーランチをみつけて、ウェスティンホテルに行くと、売り切れで、1700円のランチから。ヘルシーランチと称して、玄米など、いつも家で食べているから、と言うので、地下の食堂に。
 昼時で、サラリーマンが食事をしているのだけれど、蕎麦屋に入ると、煙草の煙がすごい。耐えきれずに、飛び出した。
 結局、以前に行ったことのある、お好み焼きの店「きじ」に入った。
 中は以前とは打って変わって、空いている。



 以前と同じものを注文。でも、全く以前と変わっていた。不味い。実に不味くなってしまっている。以前、焼いていたおやじさんの姿はなく、やとわれなのか?
 客が減っているのは確か。こんな不味いお好み焼き、そう食べられるものではない。

 でも、とにかくは、お腹も満腹になり、映画の時間もやってきた。
 映画は、予想していたように、とても良かった。
 マーティー、シーンが、父親役で、サンティアゴ・デ・コンポステラへの道をめさして、歩くはすであった、息子の突然の死の知らせを受けて、遺体を確認しにやってきた、父親が、息子の遺体を火葬してもらい、息子の荷物を背負って、息子が辿ろうとしていた道を歩く。亡くなった息子が、時折姿を見せては消える。息子が、父親とうり二つのように、よく似ているので、息子さんかな、と思っていたら、そうだった。

http://hoshino-tabibito.com/pc/

サンティアゴ・デ・コンポステラへの道を目指す人々の動機は様々だ。皆、それぞれに思惑をかかえている。長い道のりだ。
 父親は、息子とは、母親が亡くなって以来、疎遠になっていた。
気の合わない息子、どちらも頑固で、傲慢、人を寄せ付けない孤独があった。道を目指す知らない人同士、いやおうなく関わっていくうちに、友情が生まれ、人の温もりを体験し、 笑いと喜びが生まれる。悲しみは癒えないとしても、その悲しみ故に、共感を抱くようになる。その孤独感故に、人は寄り添っていなくてはいけないということも知る。
 父親と息子は、サンテティアゴ・デ・コンポステラ、「星の道」を同行するうちに、息子が求めていたものを共感出来るようになっていた。
  
  この道を、ずっと以前に、歩いた人がいる。
 関学の美学教授だった人で、後に、松蔭大学の教授になって行かれた方。
 その方から、出版された「銀河を辿る」という本を頂いた。
 それ以来、サンティアゴ・デ・コンポステラへの道を辿る、人々の話は、興味があった。 その人は、十年かけて、夏の安みに、お友達の画家と一緒に、道を歩かれた。
 美学の専門書としても、貴重な本だ。
 ロマネスク美術の跡を辿るのが、目的だと、言われていたが、その当時は、それほど大変だとは思っていなかった。本を頂いて、読ませてもらって、とても、大変な道だということが想像出来た。
 最近、日本でも、この道を目指して歩く人が多くなっている。テレビでも、放映されている。そのブームに乗ってか、この映画も話題を呼んでいる。
 映画を観ながら、私は、美学の教授も、ここを、こんな風に、歩いて行かれたのだろうと、二重の思いで、この映画を観ていた。
  
 清水芳子作「銀河を辿る」新評論 
 ロマネスクの美に魅了されて歩いた1600キロ

 写真も沢山入っていて、ロマネスク美術に触れるのにも、貴重な本だと思います。
 私も、改めて、この本を読もうと思っています。  

Posted by アッチャン at 11:52Comments(0)映画

2012年06月25日

玉三郎の「阿古屋」に感無量


   


 待ちに待った、玉三郎の「阿古屋」ついに、観て来ました。
 翌朝になっても、まだ、夢さめやらず、ぼーっとしています。
 幸せだなあ、つくづく感謝です。
 友人が、クレジットカードの住友に、阿古屋のチケットが、割引きで買えると知らせてもらって、どこの席か、指定は出来ないけれど、15000円チケットが12000円で買えるので、二等の10000円と変わらないから、2階席になっても、と思っていたら、なんと、前から9列目の、真ん中席だった。
 歌舞伎では、最高の席で、オペラグラスが不要なくらい、微細なまでに、よく見えた。 花道から現れた玉三郎の、表現不可能なくらいの美しさ。これぞ美の極み。
 姿形の美しさに、気品漂う色香、ただ美しいのではなくて、肉体の儚さをを惜しむ美、 造り上げて来た、生きた芸術、この場限り、この時間限りで、消えて行く現実の美。



 ああ、私は、これほど、「永遠に続くことの赦されない、肉体美の美しさ、至芸の宝玉」を幸せの境地の中で、儚さ、悲しさを持って、観たことがあるだろうか。

言葉で、表現すれば?言葉がない。
 阿古屋が、景清の姿を、幻の中で追うように、夢みるような、ひたむきな表情で、目は宙をさまよい、琴、三味線、胡弓、を乱れなく見事に弾くのだけれど、阿古屋の哀れを誘う、はかないけれど、ひたむきな愛の深さは、底知れに海の底の果て、青空の天空に舞う白鳥の哀しさ、にも思われ、涙を誘う。

 そう、この役は、玉三郎以外の、誰もやれない。玉三郎が、阿古屋の化身なのか。
 阿古屋、をやれる役者を、これから育てるには、女役の為に生まれ、女役の修行を、幼い時から精進し、阿古屋の世界を再現出来る「肉体芸」を造り上げる、時間と、才能と、 弛まぬ芸動の道がなければならない。


  
 そして、幾千万の絶えざる、精進に、神から授かった才能と、運命とが、手を携えて、造り上げる、「美」が、滅びのものであるという、無常。

 玉三郎は、ここから、また高みに登って行く。昨日よりも明日、違った阿古屋が造り上げられていく。どこまで、どんな?
 玉三郎は鷺娘を描いている。雪世界の中で、舞う鷺娘は、玉三郎そのもの。
 玉三郎の衣装には、雪と、鳥の刺繍が施されてる。降り積もる、真っ白な雪の中で、
 深紅の紅のような血を流しながら、舞い死んで行く、孤高の白鳥は?

 表現に値する言葉がない。



  隣に、東京から来ている女性がいた。愛の助の後援会に入っている人だった。
 去年、テアトルで、彼女は、「阿古屋」を観ている。
 フアンなら、どこまでも、ついていくのだろう。費用もかかる。
 お金がないと、というが、違うのだ。狂っているのだ。芝居狂い、役者狂い、と昔から言うじゃないか。芝居小屋に通いつめ、贔屓の役者に入れあげて、身上を潰すくらいは、
 まだ良いとしても、借金を重ねて、盗みまで働く人も。それほどの情熱のある人は、まれだけど。3度の飯を食べなくてもという人は、今も昔も変わりなくいるだろう。
 魅せられてしまったら、もう逃れられない。熱狂であれ、静かであれ、狂うのだ。
魔物、魔の世界。
     

Posted by アッチャン at 09:19Comments(0)演劇

2012年06月18日

7月26日から、吉田堅治展が広島で開催されます。



    


今朝、吉田さんの娘さんから、お電話をいただいた。
 吉田堅治さんの、個展が、7月の26日から、広島のはつかいち市で、開催されるとの
お知らせです。
 NHKが協賛になって、8月の原爆記念日にちなんで、平和を改めて考える集い、というコンセプトで開催されるのでしょう。

http://www7b.biglobe.ne.jp/~kenji-yoshida/index.html  


去年の3月11日は、原爆の800発分もの放射能が、日本中にばらまかれたのですが、目には見えない為に、その怖さは覆い隠されたまま、私達は、何もないかのように、生活しています。
 身にふりかかってからでは、遅いのに、現実感がない人々は、原発が必要だと思っている。
 野田総理が、国民に、安全性を約束したから、と責任を転嫁するかのように、再稼働を容認されました。
 今、起こっている現実はどうでしょうか。
 水には、セシウムがなくても、その底に貯まっている泥に、高濃度のセシウムが検出されているのです。
 阿武隈川で、鮎が放射能に犯されているのです。

 人間は、大丈夫、ではありません。
 大飯原発には、活断層があることを、政府と関電は認めようとはしません。
 ない、と言っているのですが、現実には、あるのです。
  琵琶湖が犯されると、近畿の命の水は、汚染され、人間が生きる為の水が飲めなくなるのです。
 そのような、命に関わる危険を、電気の供給の為に、犠牲になんて出来ないはずなのに、 「そんな事態には、滅多にならないだろう。」という安全神話の復活です。

 橋下知事も、「停電が起これば、命にかかわる人も出てくるので、再稼働は有り難い。」とコメントしています。
 病院や、命綱の器具をつけている人達のことを言っているのでしょうが、そういう所は配慮出来ます。
 東京は、昨年18パーセントの削減をしました。
 やれば、出来ることを、あえて、やらないようにさせている。

  吉田堅治さんは、「平和への祈り」を「生命」の大切さを、訴えて絵画に表現しながら、命の灯火を燃やし続けた画家でした。

 吉田さんは、清貧に生きた人でした。最低のものだけあれば良い。わずかなものを分け与えることを喜びとした人でした。

 平和を実践した人でした。
 人の命を大切にした人でした。
 飢えていないか、と訪れる人の
 為に、食べ物を常に用意していました。
 危険な目に会わないか、と誰にも心を痛める
人でした。
命の限りを尽くして、誰にも、分け隔てなく、
愛をつくした人でした。

 日本には、かつて、清貧に生きることの美しさがありました。
 分かち合って、苦難を乗り越えて行く、優しさがありました。
 今、私達は、もう一度、考え直す、機会を与えられたのに、
 それがもう忘れ去られようとしている。時間は余りにも性急です。

 吉田さんの「展覧会」は、立ち止まり、考える場を提供しているのだと
 思うのです。

 はつかいち市ギャラリーでの、個展のお知らせは、吉田堅治ホームページの最後にくわしく
 載っています。ご覧ください。  

Posted by アッチャン at 12:43Comments(0)art

2012年06月17日

映画「ミッド、ナイト、イン パリ」


   



ミッドナイト イン パリス
http://youtu.be/_cgX7pnR-xM

久々に、映画大好き、と思える映画を見た。
 ウッディー、アレン、らしい、スマートで、上品で、お洒落な映画で、軽いタッチで描いているけれど、シリアスな本質を押さえている。
 ウッディ、アレンの映画は、ユーモアに溢れているけれど、バーナードショウのように、 上質のブラックユーモアに溢れている。インテリジェンスで、皮肉やでフランクなニューヨークッコが、フランスに、特に、文化人としてのパリへの憧れを、自然な形で描いている。
 パリのあらゆる場所が、次から次に写し出される。
 世界で一番美しい、といわれるパリの街並み。

 私達だって、パリに行くと、モンパルナスの夜の街を歩けば、ヘミングウェイや、フィッツジェラルドが、この町に滞在していた頃のノスタルジーを感じる。
 モジリアーニは、フジタは、ピカソは?
パリ中の至る所に、彼らが生きていた、気配を実感する気分が残されている。

 夜の12時の鐘がなると、馬車がやってきて、小説家に憧れる青年を、過去の世界へと誘う。彼が見たいと思う世界、今よりも良かったと思える世界に。

 過去に生きる人達は、その生活に不満を抱いていて、それ以前のベル、エポックに憧れを抱いている。その時代に生まれてくれば良かった、と。時代は更に、ルネッサンスの頃が良かった、と。





 無いものねだりの現実の生活、でも、悪くはないのだよ。好きな人にも出会える。
 パリに憧れるのなら、現実にパリは存在していて、生きている。ここで住めば良いじゃないの?そういう選択、自由は、私達にあるのだよ。
 ないものねだりして、不幸感を抱いていても、はじまらない。1歩踏み出す勇気があれば、間違っている関係なら、解消すれば良い。フィーリングの合う、価値観を共有出来て、楽しい人と出会えるチャンスもある。

  この映画の、小説家と称する、脚本家の青年は、ウッディー、アレンそのものを演じている。さすがに、ウッディーは、この若い役所を自分で出来ないけれど、しゃべりかたといい、どこかおどおどしたようで、見栄えのあまり良くない青年を使っていて、若い頃のウッディー、アレンを演じている。
 強迫神経症に悩まされているウッディが、パリを舞台にして、のびのび楽しく映画を作った、という感じがして、晩年の絵描きの作品が、アルカイックになっていくのに似ているなあ、とそんな感じの、秀作に仕上がっている。

パリの街を散歩しているだけで、心がなんとなく躍って、ハッピーな気分、私だって、そうだよ。  

Posted by アッチャン at 12:15Comments(0)映画

2012年06月16日

 消費税増税と大飯原発の再稼働での、野田総理の大罪

 
  

 消費税が、自民、民主、公明の3党合意で、決定したニュースは、オウムの高橋逮捕のニュースにかき消されて、影を潜めた。
 国と、メディアによる、国民への関心をそらせる作戦で、いつでもこういう捜査をするのだが、この時期に、小沢さんの奥さんからの離縁状が、週刊文春に掲載されたのも、画策の表れだろう。
 事実無根ではなうても、小沢さんが放射能が怖くて逃げ出した事実は、全くないことを、証明しているジャーナリストはいる。その時期に小沢さんに会って、福島の原発事故の重要性を知らされたとも。この時期にぶつけてきたのは、小沢さん潰しを狙っての、裏工作があってのこと。
元、文春の記者であった、その人は、記事を書き、それを本人に見せて、了承を得てから、記事を出すのだが、スクープと称して、どこかで入手した、手紙を無断で公開し、そこに加えて、記事を出すといのは、汚い、と批判していた。
  その事実は、ともわれ、消費税を上げて、誰が喜ぶかと言えば、財務省と厚生省だけだ。 
 野田総理は、財務省にマインドコントロールされ、アメリカとの約束、海外での明言をした手前、何が何でも、消費税を上げる事だけが目的に。
 国民は全く置き去りになっている。
今日は、大飯原発の再稼働を政府の4閣僚の合意で、決定した。
 野田総理が、原発の必要性を国民に訴え、福井県知事がそれを踏まえて、再稼働を了承したのだが、ここにも、国民の意向は全く無視され、原発の再稼働を目論む権力側の勝利だ。
 福井県知事のコメントを聞けば、虫ずが走る。
 関西の住民と企業の為に、再稼働を容認します、と。

 関西の人々は、この夏足りないなら、節約して、乗り切ると言っている。原発を再稼働するのは、不安でたまらない。大飯原発に、活断層がある、という事がわかっているのに、政府も関電も全く求めようともしないし、原発のある福井県も、無視したまま。
 なにが、関西の住民の為だ。地元が、原発が動かないと、やっていけない、と思っているからではないか。
 原発で、生計を立ててきて、莫大なお金をもらってきたのは、福井の地元ではないか。 私達は、原発はいらない、と言っているのだ。
 危険をはらむ、原発に、ノーをつきつけているのに、何が、関西の住民の為だ。
 野田総理の顔も見たくないし、福井県知事の顔も見たくない。
 同じ穴のむじなたちよ。

 ああ、私達は、なんと無力なことだろう。
 されるままになっているしかないのだから。
  消費税の増税は、穴だらけ(利権の構造)のバケツに、水を足すようなもので、
  穴をふさいでから、いれないといつまでたっても、埋まらない。

  福島原発は、修理出来ない上に、後始末も出来ない、故郷は、再生不可能であり、この先、どのような人体への影響が出るのか計り知れないのに、他の原発を動かすことなど、  あってはいけないことなのに、

 私達は無力で、この責任を取らされるのは、常に、我々、「民」であり、国民なのだ。  

Posted by アッチャン at 13:35Comments(0)日々の事

2012年06月13日

玉三郎は「美の世界そのもの」


  

 玉三郎のトークショウ、これで3回全て、クリアーと相成りました。
 もういいか、今日は、と思っても、いやいや、後悔しては、と思い直し、出かけて行くのでありました。
 やっぱり、来て良かった。周りの人々の感嘆の声、嬉しそうな笑顔、皆さん、幸せを抱いて、帰宅の途に。
 今回のトークショウは、舞台のお休みの日だったので、2時から、順番に、との案内だったのですが、近くのそば屋から戻ると、すでに中に入っていて、前回のような、列んで待たされることもありませんし、南座の中の「玉三郎の美の世界展」も空いて居て、じっくろ観ながら、写真を沢山撮らせていただけて、4回目になるのですが、見なおせば、更にその奥の深さ、手の込んだこだわりぶりがよくわかって、新しい感覚で観ることも出来ました。






 玉三郎は、幼い時から、踊っているのが、大好きで、お稽古が少しも苦にならなかったと以前に聴いていましたが、今回の出し物「阿古屋」を将来やれるようになるように、と養子先の守田さんが、考えていたかどうかはわからいとしても、3種の楽器、琴、と三味線、胡弓のお稽古を、子供の頃から続けて来た事で、6代目に続いて、玉三郎さんが受け継ぐことは出来ているけれど、さて、玉三郎さんの後、阿古屋が出来る役者さんは、
いないのです。




玉三郎さんは、この人なら、と思う女形さんも、ギブアップして、とてもだめだ、というのですが、玉三郎さんは、乳母が琴を弾いていて、2才の頃から琴を習っていた琴が幸いしたとか。

 普段の稽古で充分弾けるようになっても、衣装をつけて、弾くことが出来るようになるには、また大変なのだそう。
  今回の「阿古屋」は、実を言うと、やっと昨日から、出来るようになった、と言われました。
 今回は、玉三郎さんが、阿古屋塚、を新しく献納された、六波羅蜜寺の住職さんとの対談形式のトークショウでした。


 
 「阿古屋」をお願いしたのも、その住職さんだったとか。玉三郎さんは、しばらく無言で応えられなかったそうです。
 ずっと続けて欲しいのは、勿論の事ですが、かつらの重さを、軽くしたり、工夫したので、以前よりは、負担を少なくしているが、続けられるうちは、との、いつまでも、とはいかない役所なのですし、演目に、と願っても、簡単にはいかない、特別の出し物です。 六波羅蜜寺の1050年記念もあって、決断された、出し物。
 それに加えて、偶然だったそうですが、NHKの「清盛」で、六波羅蜜寺をお参りする人も多くなって、一躍有名になったお寺です。




 私も、「清盛」から、友人と六波羅蜜寺の中の、空也上人と清盛の像を観て来ていたので、いつもはひっそりのお寺に、訪れる人が出来て、変わったなあ、と感心していたら、玉三郎さんの、阿古屋塚の新しい感じのものがあって、「清盛縁の白拍子」の「阿古屋」を演じられるのは、玉三郎さんだけ、だということも思い出していました。



 二人の対談は、歌舞伎を起こしたと言われる「出雲の阿国」が出て来ました。
歌舞伎の演目に清盛はありませんね、出雲の阿国も、という不思議が。
 出雲の阿国は、お城には、よばれていたという話題を、元歴史の教師だったという住職さんが。
 空也が初めて、念仏を唱えた人で、「南無阿弥陀仏」を広め、最初は、「念仏踊り」が芸能の始まりだったそう。



 玉三郎さんは、NHKの「清盛」を観て、随分勉強になります、と言われると、住職さんが、「宮中は雅で綺麗だったけれど、市中は、ものすごく汚くて、疫病が蔓延り、それを鎮める為に、祈願して、町中から、疫病が修まり、六波羅蜜寺が建てられた。



  清盛像は、鎌倉になってから、造られたのですが、それは、清盛の頃は、良かったと思う人々が、清盛を慕って、造ったものだから。

歌舞伎に限らず、どこの国でも、同じだな、と私はフランスの「モリエール」を思い出したりしながら、二人の話を聞いていました。



 玉三郎さんは、白地の着物に、黒の羽織での登場でした。住職さんの黒装束に合わせての着物選びだったのでしょう。
 阿古屋の演奏を聴くために、5度足を運んでいる人もいると聴いて、私もそれぐらい聴かせてもらわないと、勿体ないのだと。

 経済的にも、人的にも厳しい時代になって、名古屋の御園座が閉じられる。
住職さんは、舞台が、柔らかいのに、関心する。怪我がないように、柔らかく造られているのと、音を響かせる為もある。
 昔は、日本の檜を使っていたけれど、今は、そういうことも出来なくて、外材を使っている。八千代座、金比羅座、名古屋の御園座には、素晴らしい昔ながらの檜が敷いているけれど、その御園座が、閉館する。
 役者を志す人も少なくなっている。芸術活動事態も、出来なくなり、厳しい時代になっている。



 玉三郎さんの生きる世界は、「美」の追求と美意識を磨くことに、命の火を灯し続けてやまないことが、玉三郎の「美」の世界を見るとよく理解出来る。
 そして、玉三郎、という存在は「美」そのもの、芸術であることが。




舞台の磨き抜かれた床や周りを見てを見て、住職が

「綺麗に磨かれてますね。」
「私がうるさいですから。幕があくまで、掃除してくれています。足袋の裏が黒いのを見せられません。」  

Posted by アッチャン at 16:19Comments(0)演劇

2012年06月10日

玉三郎「阿古屋」を語る



    

 玉三郎さんのトークショウ、前回と違って、沢山の人が、劇場をぐるりと取り囲むように、列んで待っていました。
 待っていながら、隣の人と話をしましたら、私が行きたいと思いつつあきらめている、
東京の新橋演舞場でやっている、亀治郎さんの襲名披露公演の舞台と、コクーン歌舞伎のチケットも買っているという人で、今日は、玉三郎の舞台を観たあとだとか。
 四国から、来ている人だった。
 フアンはすごいな。

玉三郎作
 
 やっと私達の番が来て、南座に入ると、後ろの方まで座って入る。
私はとにかく前の方に開いている所はないかと観ながら、端の方に、4番目の席を確保。
 端の方は空いていた。
 トイレから戻ると、もう一杯で、桟敷も、二階にも。
 今日は、玉三郎さん、一人のトーク。
 カーテンがあがると、今日は、着物に袴姿で。
 薄色の淡いグレーとブルーがかかったような、爽やかな色合いで、とても似合っている。
 やはり、洋服よりも、着物姿の方が似合うなあ。
 シャワーを浴びて、顔がさっぱりした様子で、とても自然な美しさ。
 立ち姿で、観客に語りかける。真剣に、時には、笑った顔がすごく素敵。
本当に、話が上手で、ぐんぐん惹きつける。

隈取り


 阿古屋、にまつわる、六波羅密寺との縁だとか、「阿古屋」を玉三郎が、6代目の歌右ヱ門から、受け継いだ経緯とか、「阿古屋」を演じることがすごく難しく、ハイグレードになっているので、次に継げる人が見つからないとか、
 阿子屋の衣装が、舞台に出ていて、その衣装の話。三味線、お琴、胡弓の、使い方や、お琴の作り方、三味線の譜面が貼り付けてある所など、裏の詳しい話は聞けて、
オペラグラスで、その造りの細やかな所まで、みることが出来ました。
 あらかじめ、配られた質問用の紙を出した人達への、解答を丁寧に、ユーモラスに語ってくださって、あっというまの1時間。終わって欲しくなくて、時計を観ていたら、ジャスト1時間くらいだった。
 舞台の前に、立っているので、とても良く観られたのに、オペラグラスで、表情の皺やしみ、髪の毛の動きまで、魅せていただいた。




  玉三郎さんは、10時から4時まで、毎日稽古で、その後、国立劇場に飛んでいくという生活、その合間に、映画が観たくて、時折、お稽古をサボらせてもらって、映画を観ていたそう。
 稽古が終わると、師匠が、お茶漬けを用意してくれていて、それを頂いて、国立の舞台に。
 海外の中で、一番すきなのは、イタリア。食事も、人も親切で陽気。
 ダイビングの海は、魚よりも、地形に興味があるそう。
 舞台を観るのが好きなので、サンディエゴに行った際にラスベガスで5日間滞在して、
 舞台を毎夜7時から11時まで、10作品観たそう。昼間は、泳いだり、歩いたり。
 打団のヨーロッパ公演でも、10作以上の舞台を観たとか。
 歌舞伎の演出もやりたいし、他のプロデュースもやりたいし、脇役でも、舞台に出られる間は、舞台にも。


女役に徹して、最高の化粧道具を造った。東の木と、京の蒔絵の雅との合作。

  凝り性なので、お稽古に凝り、道具に凝り、新しい事に常に挑戦していく、バイタリティーと、年齢を超越した若々しさ。しなやかで、のびのびしていて、究極の勉強好き。
 美の探求は、限りなく深く、何処までも広く。
 玉三郎の世界は、宇宙だ。「天かける宇宙。海の底、透明で輝く光の果て」

 お腹を空かして、心は満ちて、家路に。 昼も夜も食べる暇なかった。



 



  

Posted by アッチャン at 03:20Comments(0)演劇

2012年06月10日

琉球王国の華「組踊」


    


 南座で、玉三郎さんのトークショウがあるのが気になっていたので、今日は空けていたけれど、どうしようかと思案。
 南座のホームページを開くと、今日だけではなくて、火曜日の公演の休刊日にも、阿子屋ゆかりの、六波羅密寺の住職さんとのトークショウがあるので、そちらにしようか、とも。
 造型芸術大にある「春秋座」のメールが入っていて、それを見ると、今日の2時から、
 琉球の「組踊」の公演がある。人間国宝の2人が出演するとのこと。
  玉三郎さんのトークショウは、6時半からなので、12時に、整理券をもらって、
 それから、春秋座に行って「組踊」を見れば、調度良い。




  琉球王朝の舞踊劇は見たことがない。人間国宝の芸なら、見ておかないと、次に見られないかもしれない、と思って、重い腰を上げた。
 南座に着いたのは、12時20分、1000円の「玉三郎美の世界」のチケットを買わないと、整理券がもらえない。
 今回もらった整理券は、194番というので、早いのかと思ったら、先月のように、アルファベットのついたものの、次に配られるもので、400番くらいだと言われた。
 先月のトークショウは、一階の中程までしか席が埋まらなかったので、400番目でも 大丈夫だろう。



 バスで、造形芸術大行きだと思って乗った4番は、先日、円通寺に行った時に乗ったのだけど、間違っていた。
  途中で降りて、引き返すのに、トイレに行っておこうと、地下にもぐって、地下鉄の側にあるトイレに入ったのまでは良かったのだけど、出て来た時に、段差があるのに気がつかないで、ずってん。先日、やってしまったと同様の状態で、ひざを打ち付けて、転んだ。
 周りにいた人が心配そうな顔している。
 笑いながら立ち上がって、痛いのを我慢して歩いた。骨は大丈夫だけど、2度目なので、少し痛む。
 馬鹿だなあ、と我ながら。
 友人とこの前別れた、三条京阪の所まで歩いて、5番のバスに。満員だ。
 1時半から開場だというので、ぎりぎり間に合って、当日のチケットを買うと、1階席はほとんど埋まってて、最後列から2つめの席だった。
「春秋座」はそれほど大きな劇場ではないので、後ろでも、良く見えた。
 脚本付きのパンフレットが配られて、出演者と照らし合わせながら、舞台には、翻訳の字幕もついているので、それを見ながら、舞台を見る。



  琉球王国の国王の代替わりには中国から使節を迎え、即位の祝いが催されます。使節の船は、即位用の王冠を乗せて来るので、「御冠船」と呼ばれ、歓迎の為の「御冠船踊」を宮中で取り仕切る役職「踊奉行」の玉城朝薫、という人は、薩摩へ3度、江戸にも2度上がり、大和の芸能にも、深く精通して、能や歌舞伎、狂言などの、大和の芸を参考にしつも、琉球の音楽や装束、小台の言葉を用いて、しっとりと品格のある劇的世界を造りあげました。
 出演者は立方(役者)と地方(奏者)に別れます。
 演ずるのは、士族の男性によって行われ、能のように、すり足で、上半身は、動かさず昨日からの雨が、まだ続いている。
つに、身体ごと向きを変えます。

 「組踊」は、お祝いの席で披露されたので、ハッピーエンドに決まっているとか。、



 見ていて、琉球踊りらしいな、と思うのは、動きが、波のようで、歌いような台詞も、
寄せては返す波のように、同じ抑揚で語られ、繰り返し、寄せては返す波の風情が漂う。

 歌と三味線の人間国宝、西江喜春さんの澄み切った歌の、感情表現が細やかで、心に響きます。
 宮城能鳳(人間国宝)の一部のすきも、無駄もない、美しく、静かな動きも、魅せられます。

 無形重要文化財の指定され、ユネスコの無形文化遺産に、指定されている、琉球王朝の「組踊」を観ることが出来たことは、一期一会でした。




  

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2012年06月04日

映画「幸せの教室」

   

http://youtu.be/WLrC-KXKleo 幸せの教室

5月末に、映画のチケットを使ってしまおうと、駆け込みで、3本の映画を観た。
 ジョニー、デップ主演の、ティム、バートン作品は、私に取っては、少々退屈だった。  見方が違えば、面白いのかもね。
 その後で見た、「幸せの教室 」は、結構面白かった。映画の芸術性は、全くなくて、内容も簡単で、馬鹿臭くて、、映画の間、楽しんで見ていられて、どことなくハッピーな気分にさせてくれる。

大学出ではないから、と勤めているスーパーマーケットで、首を切られる、トム、ハンクスの風貌が、センスのないおじさんから、若い女の子の見立てで、すっかり格好良く変わって行く辺り、孫にも衣装といけれど、そうではないように思う。
 服を着慣れた人でないと、そうはいかない。
 着物の着付けでも、「着物百枚」と言う。着慣れた人と、俄に着付けをしてもらった人とでは違う。
 
  ジュリア、ロバーツは、以前のような美しさは衰えていても、体型は変わってなくて、 足がとても美しい。その美しさを協調して、足下を映す場面が多い。
 映画の中でも、ワンピースの裾をもっとあげたら、と友人からのアドバイスが入っている。

 アメリカン、ドリームとまではいかなくても、ハッピーな生活が、ちょっとした機会に、転がっているのがアメリカ風。

 日本では、閉塞感が若い人に充満しているが、アメリカでは、いつだって、チャンズをつかめる。ハッピーな生活も望める。

  事実、私の周りでも、望めば、動けば、自分を売り込めば、チャンスをつかんで、
 ジャンプアップしていく人達がいる。アメリカは誰でも、生活を一新して、飛躍していける国だと思う。
 その根底にあるものは、「底抜けの楽観主義」と、ピュリタン精神。

 陽気でくよくよせずに、勤勉でよく働くことが好きななこと。
  

Posted by アッチャン at 15:13Comments(0)映画

2012年06月03日

野田総理、勇気ある撤回を


   
 
 野田総理と小沢元代表との2回目の会談が、今朝、輿石幹事長を交えて行われた。
野田総理は、行政改革はやっているし、これからも続けて行く。社会保障の方向性も決まっている。
 この国会で、どうしても決議したいので、協力してほしいと。
小沢さんは、「努力をしているだろう。それは認めるが、国民は納得していない。
 やるべきことをやってから、消費税を国民にお願いしなければならない。消費税と平行して、消費税の後ででは、国民の理解を得られない。」
 前回と同じく、平行線だった。
 
 民主党政権に国民が支持しくれた期待に応えて、誰よりも、民主党が初心に帰って、
国民の生活を第一に考えているのは、小沢さんだ。党を割りたくない、というのは、輿石さんも同じ。
 野田総理は、不退転の決意を持って、消費税増税を決めたい、ということが先行してしまっている。
 党を割りたくなければ、初心に帰って、民主党を一つにすることが求められるが、
 野田総理の決意は、自民党の助けを借りてまで、自民党の言い分を丸呑みしてまで、
 消費税法案を通したいようだ。
 時間軸の問題だ、と野田総理は言っている。だったら、国民の理解を得られるような、形を作ってからにしたら良い。
 まったなし、と言っても、これが実行されるのは、2年先の話なのだ。
自民党と決別して、新しい政治を、国民は期待したのに、自民党の案を丸呑みして、消費税を通せば、民主党に未来はない。
 野田総理が、そうしてまで強引に通したい理由は、自己保身しか考えられない。
 民主党が分裂し、野田総理を初め、渡部議員が絶賛していた7奉行達は、自民党に合流するつもりなのだろうか。
 小沢さんは、民主党の理念を失っていないのは、自分達だ、と言う。野田総理が、初心に立ち返って、マニフェストをお実行する努力をしてほしい、と願っている。
 土壇場になって、踏みとどまってほしいと願っている。

  野田総理が、勇気あるリーダーであるのなら、自分の過ちを自ら認め、小沢さんの力を借りて、自民党と対決し、抱き込んで、国民主権の政治を、行動で示すべきだが、
 現実には、そうではない。このまま、突っ走って、政治の混乱を招くようだ。

  国民の信頼を取り戻すには、国民の為の公僕として、国民の生活を第一に、命を削って努力していると、国民に見えた時だろう。
 
 国民不在のまま、消費税の必要性、原発再開の必要性だけを、叫んでも、国民は納得出来ない。それがどうして、わからないのだろうか。

 「大義と理由は、総理が示されるだろう。」と輿石幹事長の発言だが、大義もなければ、国民を説得出来る、理由も存在しないだろうとの含みを持っているようだ。  

Posted by アッチャン at 18:17Comments(0)コラム

2012年06月02日

音楽評論家、吉田秀和さんの死


   

昨夜、遅くに、音楽評論家「吉田秀和さんを忍ぶ」という文字がテレビの画面に飛び込んできた。
 チェロリスト宮田大さんと小沢さんが指揮をする、水戸室内管弦楽団の演奏会で、小沢さんが指揮が体調を壊し、指揮出来なくなった時に、席を立ち、「楽団員は、指揮がなくても、演奏したいと言っています。その演奏を聞いてやろうと思われる方は、そのまま残ってください。」と会場につけかけたフアンに話される、吉田秀和さん。今年の1月のことだった。
 母は、ラジオでクラシックを良く聴いていて、吉田秀和さんの、解説がとても素晴らしいのだ、と言っていた。
 私は、名前は知っていたけれど、音楽フアンというわけでもなく、母のように、音楽が側になければならないような人間ではなく、聴くことよりも、観ることのほうに興味を持っているので、映画と音楽とか、演劇と音楽、ミュージカルと音楽、声楽と音楽、オペラと音楽、という関係でしか 音楽を知らない。

昨夜、「吉田秀和さんの言葉の芸術」を聞いて、これから、吉田さんの文章を読み、音楽を聴きたい、と強く思うようになった。
 今、「四季」を効きながら、書いている。

  吉田さんの言葉は、「詩の言葉」だ。手書きで、楽譜を貼り付ける作業が楽しいのだと言われる。書いたものは、何回も清書する。細かい所を書き直す作業が、楽しいのだ、と言われる。
 職人の仕事だ。音楽を造り上げ、作品が出来る。その作品を感覚と教養で掘り起こし、 音楽が表現するものを、詩の言葉で、再構築し、社会に結びつける仕事に専念された。
 
 バッハは、労働者だ、とマルグリット、デユラスが言っていた。
 吉田さんは、音楽から遠ざかり、自分の中に閉じこもっていた時期、バッハだけは、じゃましなかった、と言われる。
 ベートーベン、モーツアルト、バッハ、この3人につきる、と。

 母の妹は、母と同様に、音楽を聞きながら、家事をし、一人、音楽を聴いて、死ぬまで音楽を友にしていた。
 ベートーベンを聴いていると、胸がつまって、ハラハラと泣けてくる。ベートーベンを最も愛し、ベートーベンのお墓に参りたいと言っていた。
 「紙と鉛筆さえあれば、幸せだ。」とも
彼女は詩を書き、文章を書き。
 書くことは、労働者の仕事。職人の仕事。

 吉田さんは、細かい作業を延々と続けなければならない絵画について、「どれほどの忍耐がいることだろうか。」と絵描きに聴いたら、「それが楽しいのだ。」という答えが帰って来た、と。

作品を造る楽しさは、その過程にある。労働の喜びにある。 夢中になって、それと取り組み、あれこれと修正し、自分が、求めてているものに、試行錯誤の末に、たどり着こうとすることが楽しいのだろう。

 私は、誰かに「あなたは造らない人ね。」と言われたことがある。
 私は、本当の喜びを知らずに生きているのだろうか。いや、生きているのだろうか。 詩と死は、同じ表音。  

Posted by アッチャン at 13:21Comments(0)

2012年06月01日

橋下さんが本性をあらわした。

 

   


大飯原発の再稼働に、橋下市長は、容認をした、と発言している。
  報道では、政府の権力に敗北した、と好意的な発言も見られるが、本質はそんなところにはない、と私は思う。
 橋下氏は、机上の論理でものを言っているのでは仕方が無い。建前ではなく、現実の問題として、政治を動かせていかねばならない。事実上の容認をした。けれど、限定付きということで、2年も3年も動かすようなことには、声を上げていきたい、と言ってる。

まさに、橋下さんは、政治家ではなく、弁護士であることを、ここに証明している。
はでな論戦を繰り返して、理想論としては、市民の支持を得たいために、再稼働には反対していたけれど、論に負けて、本音が出た、ということだ。

 この人は、信用出来ない人間だ、ということが暴露された。

 ワシントンポストでは、一面に記事を載せてもらったが、もう大阪の市民は、橋下さんへの支持を無くすだろう。
 こんないいかげんな人に、立場をころころ変える人の、何を信用出来るというのだろうか。
 再稼働に対する安全性も確認されずに、政府の意向に負けて、賛成に廻る、関西連合の知事達のことはどうでも良い。
 先頭に立って、政府や関電を相手に、喧嘩腰に大見得を切ってきた人間が、現実は厳しいのよ、と尻尾をふる犬に成り下がるのだから、期待していた人達の期待を見事に裏切った。

 たとえ、現実には、政府の権力に屈しようとも、反対なら、反対してほしかった。
商売のかけひきではない。
人間の命にかかわる問題だ。福島の事故で、私達の意識は一変した。ノーモア、原発が、国民のほとんど。
一部の、利害関係を重視する人間だけが、原発の必要性を訴えている。

期限付きなど、出来るはずがない、と内心は、わかっている橋下さんは、口では、政府に口先だけの、文句を言っていくというのだろう。

 絶望した時から、希望が生まれるという。
 橋下さんが、えせであることが取り返しのつかない状態になる前に、私達は、彼の言葉によって、わかった。

 小沢さんとの会談後、野田総理は、自民党に助けを求めて、ラブコール。手土産に、閣僚二人の首をぶらさげて。

 新聞は、こぞって、消費税をあげないと、日本の信用ががた落ちで、国債の金利が上がり、大変なことになる、と国民を脅かしている。
誰が言わせているのだろうか。

 日本ほど、安心出来る国はないから、日本の国債は買われ、円は買われている。
 先日の記者会見でも、小沢さんは、まだまだ、日本には、余裕がある。この間に、
 政治の仕組みを根本から変えて、無駄を省き、被災地の復興に全力を注ぎ、経済の立て直しを図ることこそ、日本が早急にやらねばならないことだ、と。

  消費税の裁決を迫り、小沢切りを狙って、民主党を分裂させ、自民党が帰り咲こうとの、卑しい欲望を抱いている、自民党に、首を突っ込んでいく、今民主党の実権を握っている議員達だって、橋下さんとにたりよったり。
 口だけ達者な人ばかりで、政治家としての信念は皆無だ。
  
  このまま、自民党の思うつぼで、選挙になれば、日本の議会政治は崩壊する。
戦国時代に突入する。それを避けなければならない、と小沢さんは言う。
民主党が国民に約束した事を、困難はあっても、一丸となって、乗り越えていけば、
国民は、支持してくれる、と。

そう、そうなのだ。ぶれずに、誠実に、信念を持って、ただ、ひたすらに、国民の幸せのために、公僕としての仕事に専念してくれれば、国民は必ず応えてくれる。
共に、日本を良くしていこうと、努力を惜しまないはずだ。

  絶望の中から、希望が生まれる。今、どこを見渡しても、信用出来る政治家は、
 小沢さんしかいない、と改めて、橋下さんの発言で思った。  

Posted by アッチャン at 14:10Comments(0)コラム