2013年03月19日

映画「千年の愉楽」




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  若松監督の遺作となった、「千年の愉楽」を梅田のテアトルで観た。
 生まれて、死んで、生まれて、死んで、生まれて、死んで,人間の輪廻が繰り返される。  殺されても、践まれても、生命は、底からふつふつと沸き上がってくる。
 生き血を吸って生きる、バンパイヤーというものを、想像して作品になった、「ドラキュラ」は、生き血を吸って、永遠に生きながらえている。
 この映画の中で、女の亭主に刺されて、血を流して死んでく,若者は、肉親の血のたたりだと言って死んで行く。
 次に出てくる、若い男は、平々凡々にただ生きていくことなんか出来ない。頭に血が上り、血が騒ぐような、危険な行動を求めている。そこに、泥棒に入る事を誘われて、待ってましたとばかり飛び乗る。最後はおぼれた女の亭主に刺されて死ぬことに。
 最後の青年は、北海道の建設現場に行き、抵抗運動で死んだ、と風の便りに。
 彼らは皆、飯場で働くか、山に入るか、の肉体労働者。彼らを取り上げた、助産婦は、「どんな状態にあっても、私がここにいる。」と言って、有りのままに受け入れる。彼女は、命を取り上げ、この世に送りだす、、千年生き続けている、森の魔女、のような存在でもあろうか。
 女というものの存在は、「命を生み出すもの」で、男というものの存在は、「血を流して死んで行くもの」
 女が男を引き寄せ、死なせる。自然界の全ての生物がそうであるように。
 
 男達は、戦争が好き。暴力が好き、血を見ることが好き。血気に及んで、血判して、刀を振り回して、死に急ぐ。
 何故?男は女に捨てられ、殺されて、生きているからだ。母胎回帰の夢を夢見て生き、死に場所をもとめているからだ。

 DNA的に言えば、元々は人間は女から出来ていて、何かが足りないと、男になるのだそう。
 そういうことから推察すれば、やはり、欠けた部分、失った部分を求めて、完全な形になりたいという願望が、どこかにあっても不思議ではない。

 女は、戦争を嫌い、平和を望むのは、元々、完全で安定しているからだし、命を生み出すものとして、生は受け継がれるから。
女は、子供を産み、母親になると、強くなる。男にはそれがない。女の中で、何千回と死んでいる。  

Posted by アッチャン at 01:27Comments(0)映画