2015年01月18日
あれから20年
20年前の今日、徹夜をして論文を書いていた。
突然の揺れに素早く机の下に入り込んだ。両脇の足を持って、上下に激しく揺れる。
とてつもなく長い時間に思われ、私は死ぬと思った。
あの恐怖は今も忘れらることはない。
運よく助かった命なのに、一生懸命生きてきたかというと
そうではない。
今でも、西宮北口を通るたびに、平屋の下敷きになって亡くなった
フランス語の先生のことを思う。
どうして、西宮北口の古家を借りて住んでおられたのだろう。
フランスで、新しい情報を仕入れて来ます、と言われたのが、最期の会話になった。
日本に帰られて以来、お会いしていなかったので、仁川の教員宿舎におられると思っていた。
あんなに、アクティブで、死とは無縁のような方が、一瞬のうちに。
西宮北口のあたりは、すっかり変わって、面影を残さないけれど、
古い平屋の中で、すっかり熟睡していただろう先生の姿は、幻のように、私の想像の中に存在している。
私と、もう一人、同じように被災した人に、「私は被害がなかったから。」といって、お見舞金を私達にくださった
もう一人のフランス語の先生のことも、震災と切り離しては考えられない。
気さくで優しい方。
授業が終わって、教授室で、ポールべキューの魚をご馳走になったことがありました。
学生たちからの要望で、部屋でパーティーをしたことがありました。
授業中、肝臓が悪いのではないかしらと思われるように、手のひらが赤くなっておられるのが
気になっていたのです。
ワインを一杯飲んで、ポールべキューズのお料理を、今頃は天国で楽しんでおわれるでしょう。
震災の後、母のマンションで、水の配給車にならんで、12階の部屋まで、何度も運んだこと。
長田の火事も、何が他で起こっているのかも、まったくわからずにいたこと。
アスベストの埃だらけ道を、代替バスで大学に通ったこと、など。
遠い昔のような、つい昨日のことのような。
よき人は駈く
私はお二人を思い出すたびに、そのことばが浮かんでくる。