2009年03月23日

一瞬の永遠

 一瞬の永遠

 先日、京都に母を連れて行ったことへの礼と、母はそのことを何も覚えていないこと、なんとも精がなくて悲しい限りだ、という文面のメールが入っていた。
 私は、母の為に、京都に行ったのではない。母を喜ばせたい、散歩して足腰の運動をしてほしい、少しでも元気になってほしい、という私の言わば、自己満足の為に、母を京都に誘ったのだ。だから、感謝しているのは私の方だ。元気な母と、こうして楽しい時間を持てることの喜びは大きい。京都で歩き回り、寝る時に、私は、合わない靴のせいか、足が痛くて寝られないのに、母と言えば、コテンキューなのである。寝酒に、チュウハイの缶を二人で分けて飲む。甘いもの好きの母には口当たりが良いらしい。美味しいわね、と言いながら、私の量が少なくなることを心配する。私が酒飲みだから。「ホテルの廊下に行けばいくらでも買えるから。」と私は言う。廊下の氷を取りに行くというと、母は心配してついてきてくれる。部屋の向いにあるというのに、なにか起これば大変だから、と。

 一瞬の永遠


 錦市場で、母はバッグを買った。最初は、私に買ってあげるのだと言って、物色してるうちに、最後には自分用に買う事になる。安いから、一度食事をするぐらいだから、というのが、最近の母のくちぐせになっている。昔は良く、勧められては衝動買いして、「しまった。こんなものを買ってしまった。」と母が愚痴る。父は笑って、[お前は、自分で買ってきて、こんなに良い買い物をしてきたと言ったことがない。]と言っていた。
頼りにしていた父が亡くなってからは、母は安いものしかほしがらなくなった。母は中でもバッグが大好きなのだ。友人にもバッグが好きという女性は多い。女性とバッグは切り離せないものらしい。ブランド品から、エコバッグに至るまで、おしゃれと実用両面で、関心が深い。
 とにかく、母はバッグを、あれやこれや、と探している時には、喜々として幸せ、元気なのである。そういう姿を、私は見ていたい。

一瞬の永遠

 母は言う、「こうして歩けるから、なんとか来られるから、有難いわ。」そこが京都であるのか、どこであるのか、忘れていても、把握出来なくても、そんなことは重要なことではない。一瞬という永遠の時間を、生きているという実感が大切なのだ。美味しいわね、と思える瞬間、周りの景色に足を止め感動できる瞬間、車窓から、ホテルの窓越しに、朝のレストランから、それらの瞬間の一つ、一つは、私にとっても、母にとっても、共に生きる永遠の時間なのである。この体験とそっくり同じものは、つかめない。だからこの一瞬は、かけがえのないものなのである。


Posted by アッチャン at 17:50│Comments(0)
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