2009年09月29日

イヤフォーンを使うのはほどほどに。



 イヤフォーンを使うのはほどほどに。

ヨーロッパ委員会は、CDなどのイヤホーンを最大の100デシベのボリュームで数週間聞くと、聴覚を失う危険性があるので、レベルを80に落とすように改正する。
私の母は、耳が聞こえにくい。以前に、補聴器の専門店で、母に合わせて補聴器を作ってもらった。80万円だった。作った頃は、まだ母の記憶力はしっかりしていて、何の問題もなかった。認知症と診断されてからも、補聴器を使うことにはなんら問題なかったが、最近では、大切にして保管するのは良いが、その場所を覚えていないので、周りの者が探すのに一苦労する時もある。
グループホームでは、補聴器の扱いを拒否されて、母は補聴器なしで、ほとんど耳が聞こえない状態で生活を余儀なくされている。
 ホームの中で、母ほど耳の聞こえない人は他にいないようだ。
母は、他の人が何を言っていても、全く聞こえない。耳元で、話せば聞こえるけれど、他の老人達が、そういうことまで母の状態を把握出来ない。
 父も、片方の耳は、中耳炎でこじらしたために、聞こえなかったので、家では、テレビの音がガンガン大きかった。私の声も、自然に、大きくなった。耳は、騒音の中にいると、益々聞こえにくくなる。話が聞こえにくいから、家族の声は大きくなる。
イヤフォーンを使うのはほどほどに。

 母が、これほど難聴になってしまったのには、理由がある。
以前に、イヤフォーンを使いすぎると、難聴になると聞いたので、母に忠告したことがある。母は、机に向かって仕事をしながら、常にイヤフォーンを使っていた。イヤフォーンを使う以前は、母の傍で、株の短波放送が1日中かかっていた。それが煩くて、たまらなかった。話しかけても、上の空で、短波から流れる、株の値段の変化を聞き逃さないように聴いている。
 父に、注意されたからか、それとも、イヤフォーン付きのに変えたのかわからないが、いつの頃からか、イヤフォーンを使うようになった。会社の経理をしながら、1日中、株の短波放送を聴いていた。短波放送を1日中、聴かなくなったのは、テレビで、常時株の値段が見られるようになってからだが、仕事部屋にいる時には、使っていた。父が生きていた頃は、母は、自分の聴きたいものは、常にイヤフォーンを使っていた。


 イヤフォーンを使うのはほどほどに。


父が亡くなって、イヤフォーンがいらなくなった。CDをかけて、部屋で気を使うことなく聴けるようになったが、その頃から、難聴が始まっていた。
 私も、実は以前に、結構イヤフォーンを使っていたのだが、難聴になると聴いてからは、常時使うことをやめた。息子にも、注意したことがあるけれど、こういうことは本人次第だから、止められない。
私も、右の耳が聞こえにくい。私の場合、風邪で耳の水が溜まっていたのが原因だろうと思っている。聞こえにくいので、図ってもらった時には、それほど悪い状態ではないと言われたけれど、その後、進んだように思う。左を閉じれば、聞こえなくなる。劇場に行くと、観客が笑っているのに、何を言っているのか聞こえない。良く通る声と通らない声で、聞こえ方が随分違う。右の耳まで聞こえなくなったら、いやだからと、プールで泳ぐのをやめている。耳は聞こえなくなって、その大切さを思い知らされる。片方の耳が、全く聞こえなかった父は、悪い方で話をされると、聞こえなかった。車の免許更新に、叔母がついていって、聴覚検査では、どちらの耳に聞こえなければならないのか、手で合図をしていたという。


 イヤフォーンを使うのはほどほどに。



 母の一生は、株人生だと言っても過言ではない。今は、自分で管理出来ないので、株の取引は禁止状態。そして代償として支払った、聴力も失った。母は、本来、かけごとが好きなのだ。父と良く賭けていた。相撲で、野球で、どちらが勝つのか、勝負すると、勝つのはいつも、母だった。
父は、私にも「おい」ともちかけてくる。私は、負けるということがわかっている。勝つのはいつも父なのだ。花札をすると、不思議な事に、坊主は、父のものになる。坊主、マル儲け。負けず嫌いの人間でないと、勝負運はつかない。
 母は、父よりも、遥かに勝負運が強い。決断力の早さ、大胆さ、思い切りの良さは、父などとてもかなわない。足を引っ張る、邪魔なプライドもなく、謙虚で、誰からも空かれる性格だけど、頑固一徹、何が何と言おうとも、びくともせずに、絶対にやめなかった、株。その醍醐味を一番良く知っているのは母なのだろう。好きで好きで仕方なかったに違いない。


イヤフォーンを使うのはほどほどに。

父の友人で、子供時代、母のように、「極貧」を体験した人がいた。父が、野球に誘うと、背中に、赤ちゃんを背負って参加した。「おい、なんとかならんか」と父は不服だったようだ。父との友好関係は長く、損害保険の会社を作り、資産家になった。その人の生きがいは、やはり、株取引だった。癌に侵され、病院のベッドで瀕死の床にあるときに、父母が見舞に行くと、株の短波放送を聴いていた。株だけが、最後まで残った、唯一の生きる支えだった。こういうことは理屈ではかたずかない。情念というべきか、情熱というべきか。言えることは、その人は「生きる希望に燃えていた。」ということだ。母にしても「死んだらおしまい。長生きしなくちゃ」生きる希望に燃えている。株というのは[勝ちのかける]勝負事。先には、勝利しか見えない。

イヤフォーンはほどほどに。






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Posted by アッチャン at 14:54│Comments(0)日々の事
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