2009年06月16日

気ばかりあせる

  

母は、昨日から、また熱が出て、炎症反応が15に上がっている。金曜日に、抗生物質を変えたのに、上がっている。医者からの説明はなにもなく、今日は整形外科の診察で、強硬に言うと、リウマチの血液検査を初めてすることになった。整形外科の医者は、まだ若く、どこかの病院から、火曜日の朝だけ診察に来ている医者だ。西宮に、リウマチの専門医で、キャリアを積んだ医者を見つけたけど、今はどうすることも出来ない。
 薬剤師が来て、高齢者は、抗生物質が効いて、点滴をやめると、すぐにまた炎症反応が上昇するという。抵抗力がないからだという。それでは、悪循環でしょう、と言ってしまった。
 このような、高齢者をいつでも受け入れている病院(母がかかっている医院から紹介されて)というのは、栄養剤の点滴と抗生物質を入れることで、不味い食事をあてがわれ、1か月たてば、病院併設の、実費の高い、病院に3か月おいてもらうか、自宅に連れて帰るかしかないのだろう。
本気で、患者を治療しようと思っているとは考えられない。この悪循環を断ち切るためには、病院を変わるしかないように思う。隣の病室には、寝たきりの、100歳近いような患者が入っている。治る見込みの全くなさそうな人でも、食事を食べさせ、体を拭いて、おしめを取り換え、看護婦さんが、世話をしている。されたままになっている。そこで亡くなるか、そこからまた別の病院を紹介されるか。ベッドが空いているから、頼んでおいてもらっているのかもしれない。母よりも以前からおられる。
 早くここから母を出さなければ、と思うけれど、私には、なすすべがない。友人から、「紹介状を書いてもらうコネはないの?」と聞かれるが、私に、そのようなコネがあるはずもない。
 看護婦さんに頼んで、先生とコンタクトを取ってもらったので、明日、話を聞く事になっているが、期待した答えは望めないだろう。
私は、母が、膠原病ではないか、と疑っている。リュウマチではないか、と。リュウマチは、相当熟練した医者でなければ、その判断は難しいと言われる。血液検査で陰性でも、膠原病である場合もあるし、陽性でも、ない場合もある。だと、思うとか、ではないと思うとか、その医者の判断に頼ることになる。故に、確かな診断が出来る、専門医の中でも、経験を積んだキャリアのある医者に診てもらわなければならない病だ。
もしリウマチなら、抗生物質は効果がない。判断を間違って、間違った治療に頼っているだけの、若さと体力がないのだから、これ以上衰えないように、確かな診断をしてもらいたい、とイラついている。
  

Posted by アッチャン at 15:24Comments(0)日々の事

2009年06月16日

夏時間の庭

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コロー

 どこかで見たな、と思いながら見ていると、そうだ、去年の春に、パリの映画館で見た映画だった。
パリ郊外の画家のアトリエ兼田舎家に、子供3人と孫たちが集う。その日は、母親の誕生日、夏の時間。
画家の姪にあたるのが、3人の子供たちの母親で、彼女は、夫の死後、すぐに元の姓を名乗り、画家のポールと
共に暮らし始めた。以来、ポールが亡くなってからも、彼の愛した家具、絵画に囲まれて、家政婦と共に、暮らして
来た。75歳の誕生日に、彼女は、長男を呼んで、自分が亡くなったら、美術価値の高い、品々を、美術館に寄付し、売れる
ものは売るように指示する。
 彼女が亡くなり、長男は、思い出の多い、家を子供たちの為に残そうと提案するが、あとの二人は、中国とアメリカに暮らし、
それぞれの事情で、売って換金したいと言う。長男は、あとの二人に従い、家を処分せざるをえない。コローの絵画だけは残したいと
思うが、二人から買う事は出来ない。
 母親は、二人が海外に住んでいることで、そうなることはわかっていた。莫大な相続税がかかるので、ほとんどのものが、美術館への
寄付に。残された遺品を処分する日、甥の運転するタクシーに乗せてもらって、家政婦がやってくる。
 長男から、何かほしいものを、と言われて、いつも奥さまの為に花を生けていた花瓶を一つもらった。
「高価なものはいただいても困るから。」と花瓶をかかえて、連れてきてくれた、甥に言う。
オルセー美術館に、母親が使っていた、アールヌーボーの家具が、飾られている。長男夫婦は、通り過ぎて、あまり
見られることもない家具を見て、悲しむ。棚の中に、家政婦が持ち帰ったのと同じ作家の花瓶が展示されている。
「彼女から来た手紙を読んで泣けてきたよ。」と長男が言う。
「返事書いたの?」と妻。
「書かなきゃ、だめよ。」
 美術品としての、本当の価値は、生活の中で、花瓶に花を活け、毎日楽しむこと。家具や、花瓶は、美術館の中で、見るものではないけれど、
愛用した主を亡くした、家具もまた、本当の命を失ってしまうのだろうか。作品としての価値として、独立した存在なのだろうか。
 少なくとも、まだ、老家政婦が、主なき花瓶に花を飾り、主と共に生きていることは確か。
家が人手に渡る前に、子供達に開放する。学校の友人達が大勢集まって、にぎやかなパーティーの準備をしている。
 長男の娘が主催した、パーティー。彼女はボーイフレンドを探して、おばあさんと良く散歩した思い出の場所に来る。
「おばあさんが、私に子供が生まれたら、この家に連れて来てねと言っていたのよ。」と涙ぐむ。
映画は、そこで終わっている。
 家も、美術品も、人の生き方、人生の移り変わりとともに、変化していく。画家が精魂込めて描いた絵画も、愛蔵品も、愛着のある生活の道具も、全て。そのことを、祖母は知っていたけれど、彼女は、いつまでも生き、ひい孫の顔をこの家で見たいと願っていた。その事はかなわないけれど、彼女の素質、本質、命は、孫の思いでと、その子供の誕生によって受け継がれていく。美術にかける愛も、受け継がれていく。

  

Posted by アッチャン at 07:43Comments(0)映画